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「
ブッダ展
今から2500年前、インドの王子ゴータマ・シッダールタは「悟り」を開き、ブッダ(覚者)となりました。以後その壮大な宇宙観と生老病死に悩む人間を救う慈悲の思想は、人種や国境を越え、長い時間をかけて広大なアジアの隅々まで行き渡りました。こうしてインドに興った仏教がガンダーラ・中央アジアから東アジアへとあるいは海路東南アジアへと伝播する中で、その思想は地域の芸術活動の源泉となり多様で質的にも高い美術作品が生み出されていきました。
本展では、パキスタンの4つの博物館(カラチ国立博物館、タキシラ考古博物館、スワート考古博物館、ペシャワル博物館)が誇るガンダーラ美術をはじめ大英博物館、ギメ国立東洋博物館、ベルリン国立インド美術館、エルミタージュ美術館、クリーヴランド美術館の所蔵する傑作と日本の国宝・重要文化財などを一堂に展示することにより、かつてない規模と新しい視点でアジアにおける仏教美術の伝播と変容をたどります。本展を通して、ブッダの思想とともにアジア各地の民族の多様な文化が融合して花開いた芸術をぜひご覧いただきたいと思います。(同展図録より「ごあいさつ」主催者)
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出品作品
《海外》
カシニア舎利容器(ペシャワール博物館)
ストゥーパ図(大英博物館)
仏足石(スワート博物館)
降魔成道(ベルリン国立インド博物館)
仏頭(タキシラ博物館)
観音諸難救済図(ギメ国立東洋美術館)
阿弥陀三尊来迎図(エルミタージュ美術館)
《国内》
釈迦如来倚像〈重要文化財〉(深大寺)
釈迦如来坐像〈国宝〉(室生寺)
釈迦三尊像〈重要文化財(常信寺)
仏涅槃図〈重要文化財〉(東京国立博物館)
釈迦八相図〈重要文化財〉(大福田寺)
阿弥陀三尊来迎図〈重要文化財〉(心蓮社)
六道絵〈国宝〉(聖衆来迎寺)
《特別出陳》
仏足石〈国宝〉(薬師寺)
ほか
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展覧会の趣旨
図録の巻頭部分で、宮治昭氏(名古屋大学文学部教授)は次のように記しています。
「今回のブッダ展は、仏教の開祖であるブッダ釈迦の原点に立ち返るとともに、アジア世界に広く伝えられ、受け入れられていった仏教の様相を、美術作品を通して考えてみようという試みである」
「仏教がアジアに広く行き渡った要因には、もちろん・・・(略)・・・その教えが、時代を超え、民族を超えて、苦しむ人々の心を捉えていったからに他ならないが、・・・(略)・・・背景には、視覚的なイメージの媒体が大きく働いたからに違いない」
「ブッダとは一体どのような存在か。当時の作家・工人たちは、その姿や生涯について、僧たちの話を聞き、また注文主である信者たちの要請にも耳を傾け、ブッダに対するイメージを膨らませ、確固とした姿に刻み出していったのだろう。出家僧たちの中でも、教義、教理に秀でた僧よりも、むしろ、ブッダをイメージとして捉えるのに巧みな僧たち――彼らは在俗の信者とより強い結びつきをもった――の語りや教導は、作家・工人たちの造形活動の源泉となったであろう」
「仏教の広がりは、ブッダに対するイメージが僧や寄進者の示唆や指示のもとに、作家・工人によって見事に具体化され、それがさらに人々の関心を惹き起こすといった、視覚的イメージの絶えざる往復運動が大きな推進力となったとものと思われる。こうした視点に立ってアジアの仏教美術を見つめ直してみると、ブッダの造形、ブッダに関する様々な視覚的イメージは、逆に、アジアの人々のブッダに託した熱い思いがどのようなものであったかを物語ってくれる。」
「ブッダの世界に対する人々の想像力は、アジアの多様な風土と民族の中で育まれ、また歴史の変動と文化の交流の中で実に多彩な結実を見た。アジアの代表的な仏教遺跡と美術作品を広大な地図の中に置いて思い描いてみると、『ブッダの世界』という普遍的なテーマに対する人々のイメージがいかに多様なものであったか。改めて理解されよう。」
(以上、図録『ブッダ展』p10「視覚的イメージとしてのブッダ」より)
この展覧会の印象について私は、いろんなものがバラバラにあったが、個々にはおもしろいものがあったと述べましたが、鑑賞後、この文章に接し、複雑な思いがしました。
何故なら、私が展覧会全体について抱いた印象は、「イメージがいかに多様なものであったか」という、企画者がまさに訴求したかったことの表裏のものであったからです(つまり、私は、企画者の表そうとしたことを「ネガティヴ」に受けとったというわけ)。
それはさておき、宮治教授の、「ブッダをイメージとして捉えるのに巧みな僧たち――彼らは在俗の信者とより強い結びつきをもった――の語りや教導は、作家・工人たちの造形活動の源泉となったであろう」という言葉は、胸に響きました。決して、目新しいことを言っているわけではないのですが、他人から感動をもらうことで、人はしばしば大きな力を発揮できるのだと言う当たり前の事実を、あらためて思い出させてもらったからです。
言うまでもなく芸術の要素の一つは、新鮮な感動です。芸術家は何時の時代も新鮮な対象を発見し、人々に新たな感動を与えてきました。
変わったのは、人間の苦悩に対して正面から向き合った人物がいたということに対して、近代の人々が新鮮な感動を覚えなくなってしまったということでしょう。
近代を指して、神がいなくなった時代、存在できなくなった時代などと形容されることがありますが、芸術においても、神や仏は対象になり得ない時代になったのでしょうか。
展覧会の構成
以下の、三部構成よりなります。
1,ブッダの姿
2,ブッダの生涯
3,理想の世界を求めて
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会場を訪れた日は、開催二日目の七月十二日。天気は快晴(炎天!)。暑さのせいか、投票日と重なったせいか、来場者は、七分入りといったところ。休日にしては、比較的観覧しやすい状態でした。
「ブッダ展」が開催されているのは新館で、本館では平常展が同時開催。共に、「仏像」があるので、意識してないと間違うかもしれません。
ちなみに、私はよく考えずに本館の常設展からゆっくりと鑑賞し、後半やや疲れてしまいました。体力に自信のない人は迷わずに、先ず新館の特別展から鑑賞されたほうが良いでしょう。
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ご感想などお寄せください。
いわやん(京都)
この展覧会は、NHKで4月から8月にかけて五回シリーズで放映されている「ブッダ・大いなる旅路」という番組に連動した企画展です。番組を観た人には、また特別の感慨があるかと思います(私の場合は、あいにくテレビを観ていなかったので、そのような感動にはありつくことができませんでしたが)。
「ブッダ展」の出品点数は、印象としては、それほど多くはないように思えました。
総点数はともかく、仏像はちょっと物足りない感じでした。
ついでに言えば、数が少ない上に、まとまりに欠ける感があり、展示会全体としての迫力にも欠けていたように思います。いろんな仏像が、寄せ集められているといった印象だったのです。
しかし、展示会としては平均点以下ではあっても、個々には興味深い仏像がありました。
一言でいえば、外国の仏像に興味が惹かれました。
作品の出来云々というよりも、時代と民族によってこうも、「仏像」というものに対する捉え方が異なるのかと感心させられたのです。
東南アジア諸国やインド、西アジアなど、現地を訪れる機会がない者にとっては、その仏像が一級品であろうとなかろうと、そんなことよりも、それぞれの地方の仏像のオリジナリティが、ともかく新鮮でした。
個別に言うと、会場入口正面に陳列してあったタフティ・バーイ(ガンダーラ)の「仏立像」(ペシャワル博物館)が、特に素晴らしかったです。
それまで一時間近く、日本の仏像を観てきた(「平常展」のこと)目には、まさに目が覚めるようなインパクトがありました。
いわゆる写実的な仏像なのですが、形態がリアルという以上に、「ああ、こういう相手をモデルにしたんだな」と想像されるような生気にあふれる仏像なのです。
日本にあるものでたとえれば、興福寺の「阿修羅」などがそうですが、あれは、菩薩、観音などのように聖性が強調されるものではありませんからね。釈迦(ブッダ)など、聖性の高い対象を、そのように人間味豊かに制作した例は、日本では見当たらないのではないでしょうか。
この違いは何なのだろうかと少し考えさせられました。
ブッダの聖性、偉大さを、人間離れした特別なものとしては考えていなかったのでしょうか。
当時、当地では、ブッダのように修行し、精神的に高い境地にある修行僧が身近に存在していたということなのでしょうか。
あるいは、その作者が最も欲したのは、悟りを成就させた、完成後の聖人ではなく、まだ多分に人間味を残しながら修行する者であったのかもしれません。
話が飛躍するようですが、仏教には、現世に重きを置く考え方と、死後の極楽浄土に重きを置く考え方の二系統があるそうです。とすると、ブッダその人についても、その二つの考え方があっても不思議はありません。
つまり、身近に存在しうるような理想的な人としてブッダを思い描く感じ方と、人間とは違う次元のはるか高みの存在としてブッダを思い描く感じ方の、その二つがあるのではないかということです。
タフティ・バーイ(ガンダーラ)の「仏立像」とは、そのような言い方で説明するならば、まさに前者のタイプなのです。愛すべき隣人、見倣いたい善行を行う者として、ブッダが描かれているように私には感じられたのです。
(そして、そんな風にして示されたブッダにによって、あらためてブッダ、仏教について関心を呼び覚まされたということも、付け加えておかなければなりません)。
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