No.010 Last Up Date 2001,5,30

シャガール展
大丸ミュージアム梅田
会期 1998,9,02-9,21
休館
料金 900円

 



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シャガール展

シャガールからの贈り物シャガールはマティスやピカソとならぶ20世紀の代表的な芸術家の一人として知られている。20世紀初頭にパリに集まった異邦人のことをエコール・ド・パリと呼ぶことがあるが、シャガールもその一人に数えられる。
ロシア(現在のベラルーシ)の寒村ヴィテブスクに生まれたシャガールは1910年にパリに出て、当時の前衛的な芸術家たちと交わる。マティスのはじめたフォーヴィズム(野獣派)、ピカソを中心とするキュビズム(立体派)、イタリアの画家たちのフトリスモ(未来主義)などから影響を受けるが、シャガールの絵画の主題はあくまでもロシアの風土に根ざしていた。
シャガールは油彩画やグアッシュ(水彩画)などのほかに、版画作品も数多く残した。幻想的な光景や神秘的な雰囲気はすべての作品に共通している。この展覧会では、第二次世界大戦以前をシャガールの『魂の彷徨』の時期ととらえ、ゴーゴリの『死せる魂』と『聖書』に取材した版画作品を中心に構成する。ロシアの民衆の心とユダヤ民族の魂がシャガール芸術の源泉だからである。
第二次世界大戦後は、『サーカス』と『愛と追憶』のテーマに基づいて構成される。そこに描かれた詩情豊かな空間の世界は、スラブ民族の幻想とユダヤ人の神秘的な伝統が色濃く反映している。
島田紀夫(実践女子大学教授)。」(同展チラシより)

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出品作品

ヴァイオリン弾き
バラ色の肱掛椅子
アラビアンナイト
サーカス

ほか

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訪れたのは、10月16日の午後。前日から降り続いていた雨のせいか、人数はやや少な目。五分入りといったところ、層としては、年配の婦人グループ、個人が多く、カップル、母娘、女子学生、そして年配の男性がちらほら。予想としては、若い女性が多いのではないかと思っていたが、近頃はあまり流行らないのだろうか。あるいは、大丸京都店の集客の傾向が影響しているのかもしれないが。 雰囲気として際立っていたのは、私語がほとんど聞かれなかったということである。年配の婦人グループが私語を交わさないというのは、これはかなりめずらしい。

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ご感想などお寄せください。

いわやん(京都)
シャガールだけの展覧会は今回がはじめてでした。それまでのシャガールについての関わりは、「シャガールみたいなのは、大嫌い」と話していた知人がいたなということと、シャガールみたいな絵を描く知人がいたということ、それくらい。
自分では特にこだわるようなことはなかった。ただ、「あのウマはなんだろう」ということと、「恋人たちというのはちょっとなあ・・・」と思ったことがあったくらいかな。
さて、今回、展覧会を見ての感想ですが、まず気づいたことは人へのこだわりというのでしょうか。なんだ、人ばっかりじゃないかということを感じました。一枚、二枚の絵だけを見ると、例のウマだとか恋人たちが印象に残るのですが、多くの作品を見渡すと、圧倒的に人なんですね。
そして、その人の描き方が、実にうまく表面を切り取っているんです。描かれている一人一人が、大衆芝居の役柄の一つ一つを演じているように、笑ったり、怒ったりしているんですが、決して、そこに立ち入らない。笑いの奥の悲しみだとか、怒りの内側の誠実さだとか、そういうことをフォローするなんてことは、これっぽっちもしていない。
だから、一見、童話のカットのようにも見えるわけですが、でも、見逃せないのは、決して、そういうドタバタやっている人々を覚めた目では見ていないんですね。覚めた目で描いているようなものなんですが、少なくとも、ドタバタを嫌っていない。
「人間の愚かさ」などという言い方がありますが、シャガールは「愚か」ということを全然、疑っていないわけです。それが当たり前だし、それを見ていたいからこうやって生きているというような感じでしょうか。
ですから、そういう人間の営みを、美化したり、感傷的に見たりすることもない。ふっと立ち止まるような瞬間を夕日に浮かび上がらせたりはしないわけです。シャガールの凄みは、そういうところにある。絵のタッチはメルヘン的なんですが、視線はリアリストなんです。
その日、会場はとても静かでした。そこがデパートであり、そこにいる人の多くが普段にぎやかな婦人たちであることが疑われるくらい、静かでした。おそらく、シャガールのそのような視線は、見る人に伝わってきたのでしょう。そこに描かれているのは自分達であるということ、シャガールはそれを賛美も否定もせずに、つきつけるなどという強引なこともせずに、ただ示していると。そういうシャガールのやり方に、反発する気にもなれず、不快ではないけれども、さて、どうしたものかと、ほんの少し?させられた・・・それがあの場の沈黙の正体ではなかったかと思います。
今回の展示では、「恋人たち」は後半になって登場しました。それまで何となく好感は持っていなかった「恋人たち」のモチーフですが、シャガールという人の視線が理解されつつあった状態で遭遇すると、今までとは全然違ったふうに見えました。
先ほど、シャガールの凄みは、リアリスティックな思いをメルヘンタッチで、しかし、美化したりせずに描くことにあると言いましたが、シャガールの魅力は、そんなきわめてリアリスティックな視線で、衒いなく「恋人たち」の素晴らしき季節を描くことにあると思いました。
往々にして、人は「愛」などと、たいそうなことを考えて、大袈裟に男と女を描きがちですが、シャガールの視線は、そんな夢みたいなことは考えないわけです。それが実にうつろいやすい儚いものであることを踏まえて、でも、そのひとときは素晴らしいと、描く。その信念、その自分の思いへの誠実さが人の心をうつのではないかと思われました。
ちなみに、もう一つの疑問、「ウマ」についてですが、この「ウマ」は、いわゆる狂言回しの役割を果たしているんですね。そして、「狂言回し」がおよそそうであるように、そこにもっとも作者の思いが託されている。
現実の中でシャガールがどのように人々と接していたのかは知りませんが、絵においては、シャガールは「ウマ」を得て、ようやく自由に駆け回ることができるようになったと見えました。「ウマ」は、時に知らん顔を装い、時に、背後から見守ります。人(絵画中の)には、「ウマ」の姿が見えず、そういう気楽な立場で、「ウマ」はとても奔放に生き生きとしています。
皆さんは、自分がそんな神様のような立場に立ったら、どうされるでしょうか。やりたいことが出来るという状況ですね。
そういう状況を、シャガールは「ウマ」を発明することによって作ってしまったわけです。そして、そこにまた一つシャガールの魅力が現れます。彼は、その神様のような立場で何をやったかというと、人々を「祝福」したわけです。何もせずにただ見つめたり眺めたりすることを楽しんだわけです。

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展覧会のスケッチ

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