No.000 Last Up Date 2001,6,02

安井曽太郎展
京都高島屋グランドホール
会期 1998,10,22-11,03
休館 無休
料金 800円

 



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生誕110年記念安井曽太郎展
デフォルメと簡略化で、
実感的によりリアルに見せる、
独自の表現様式を創りだした
近代的写実絵画の巨匠の全貌に
約110点の作品で迫る
安井曽太郎展

京都に生まれ、日本の近代美術史上に輝かしい成果をもたらした安井曽太郎(1888〜1955)は、洋画家を志して、梅原龍三郎とともに、浅井忠に師事。1907年にはフランスに留学しました。帰国の翌年、第二回二科展に出品した滞欧作44点が一躍注目され、1929年『座像』を描いた頃から独自の方向を見出しました。 それは後に、『安井様式』と呼ばれる、一旦対象を正確に捉えた上で、デフォルメや簡略化、また強調をすることにより、日本人の感性に根ざした、実感的によりリアルな画面に創りあげる手法の確立でした。 本展は、安井曽太郎の生誕110年を記念して、油彩画の代表作約60点に、素描、水彩画など約50点と併せて展示し、安井芸術の素晴らしさを再認識していただきます。」(同展チラシより)

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出品作品

王蟲先生像
小宮豊隆氏肖像画
小坂氏像
藤山氏像
安部能成像
長与又郎博士像
少女
裏磐梯の初秋
実る柿

版画
デッサン

*座像は出品されません。

ほか

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「あるところで安井は、『私は対象を写しそれによって絵をつくるようにしている』と述べている。この短い言葉で安井が言おうとしているのは、制作にあたっては描こうとする対象を確実に写し取ることを第一段階とし、次に対象に対する忠実さから離れて絵画としての表現に至るのを第二段階とするということであろう。第一段階に関して、富永(惣一)は『安部能成君像』を描いたとき60回にも及ぶポーズを求めたという話を伝えており、また、今泉篤男は湯河原の天野屋別荘に安井を訪ねたときのこととして、偶然目にした窓外の風景を描いたデッサンについて、次のように書いている。『それは全く鉛筆で真っ黒にゴシゴシ塗りつぶしたような、ただ安井さんの全体重がそこにのしかかっているようなものだった。・・・・・私はその真っ黒なデッサンを見て、息を呑むような思いがした。それは上手いとか下手いとかいう代物ではない。デッサンというにも体をなさないほど真っ黒に鉛筆で塗り潰されているのである。・・・・・およそいつも発表されているような簡潔で、的確な描線の晩期のデッサンとは異なったものだった。私はこの画家が真っ黒になった一枚の紙の上に、窓から見下ろす風景を凝視めながら、その骨格を求めて異常なエネルギーを消耗している態度を想像して何か粛然たる思いがした』(『みづゑ』607)と。(中略)しかし、この第一段階から第二段階に至る間に自然感が損なわれてはいけない。(中略)

安井は、1888(明治21)年、京都中京の木綿問屋を営む商家に生まれた。
(中略)曽太郎少年が絵に興味を持つようになったのは、跡継ぎの無い隣家の藤田団扇堂に4歳下の妹が養子となっていたから、曽太郎少年はいつも隣家に遊びに行き、藤田の祖母が手慣れた手つきで団扇の模様を描くのを興味深く見ていたことがきっかけになったらしい。内気でおとなしい彼にとっては、40人近くの使用人が忙しく立ち働く自分の家よりも、静かな隣家のほうが居心地がよかったのだろう。好奇心から絵を描く真似をしたり、手本を描いてもらって写したりしているうちに、絵に対する興味は次第に深まり、絵を描く喜びを知ったのである。しかも、算盤も得意ではないし、自分の性格が商人に向かないと幼いながらも曽太郎少年は考えていた。商家の子供の常として商業学校に学んでいた彼が画家を志すのにはそんな経緯があった。

『取っつきはどうもスムーズには、行かなかったのではないかと思う。元々器用な性質ではないので、ずい分妙なものを書いていたということは、その頃研究所にいた他の人たちから聞いているが、それを1,2カ月も繰り返している中に、いわば悟入といった形で、急にうまくなり、忽ちの中に儕輩を圧したらしい。この、最初は鈍であっても、短時にして頭角を抽んでる、といったような進み方は、恐らく彼の才能のみが有し得る、或る特別な型のような気がしてならない。それはその後にも、私が度々見ていることだからである。』(黒田重太郎)
我が国の洋画の摂取は江戸時代の末から始まるが、当初の洋画理解はただ単に技術としての域を越えるものではなかった。しかし、高橋由一あたりから芸術としての理解のもとに、その迫真的表現力を獲得すべく、遠近法や彩色法などの技法を研究して『鮭』や『花魁』などの優れた作品を残したことは周知の通りである。 その後、黒田清輝が出てフランスで外光派を学んで帰国し、西洋に生まれた油彩画を情緒化して、日本人に親しみやすい油彩画を生み出した。これが油彩画の日本化の第一段階とすれば、次に来るのは日本的な油彩画の創造ということである。これは大正時代から昭和初期にかけて多くの日本人画家が取り組んだ大きな課題であった。 たとえば、岸田劉生、萬鉄五郎、小出楢重などの優れた個性がこれに答えていることは美術史の示すところだが、昭和前期に、いわゆる安井・梅原時代をもたらした安井曽太郎や梅原龍三郎ほど見事に、大振りの新しい日本画の典型を生み出した画家はいないだろう。 梅原は、古今東西のあらゆる美の中から、自己の気質にあったものだけを鋭い本能的な選別力によって選び出し、自己の中で融合させることによって独自の美的世界を構築したが、安井はすでに述べてきたように、実践的理論をともなった主観的写実主義の道を切り開き、晩年はさらに伝統的な線的表現重視の方向に向かったのである。 言い換えれば、二人は単に従来の日本的な美を油絵具で表現しようとしたのではなく、梅原は個性的に自己の体質の中に油彩画を取り込むことによって、安井は日本人が油彩画を取り込むための日本人にとってわかりやすい客観的方法を確立することで、ともに油彩技法による新しい日本画を創造したのである。 二人の方法は異なっていたとは言え、彼らが強い主体性を常に持ち続けていたことは重要で、ここに初めて近代絵画に新しい沃野が開けたとも言えるのだろう。
」(『安井曽太郎の人と芸術』島田康寛)

「富山
戦後、美術界も新しく生まれ変わらなくてはだめだという気運が出てきました。そのためには、各会員が勝手にやっていたのでは駄目で、一つの職能組合を作る必要がある。それによって芸術家の社会的地位向上とか、健康保険の適用、資材の大量購入、廉価販売など、共通の利益を図るべきだ。そういう考えで昭和24年に日本美術家連盟が出来ました。その際、誰をトップにするかで侃々諤々があったんです。その時、一番敵のいないのは安井さんだっていう理由で、嫌がる安井さんを無理矢理、会長に祭り上げたんです。具体的なことは、伊原宇三郎さんや宮本三郎さんなどが『私たちがやりますから』ということでね。
そうして誕生した連盟でしたが、利益追求と同時に社会奉仕もすべきだという声が上がりました。そこで年末助け合い運動という企画が起こり、毎年12月になると、みんなから作品を集めて、それを銀座松屋で競り売りするんです。そのお金を困っている人たちに寄付しました。
会長の安井さんは立場上、毎年末率先してこれに当たらなければなりません。亡くなる昭和30年は、安井さんにとって特に忙しい年でした。
家の新築のほか、ある銀行の総裁から肖像画を頼まれていたのですが、その方はすでに健康を害されていて、とうてい湯河原のアトリエまでモデルに通うことが出来ない。しかし、安井さんに絵を描いてもらわなけりゃ、死ぬに死ねないと強要する。仕方がないので東京駅近くのホテルを双方の落ち合い場所にしました。安井さんはそのホテルに長期滞在し、総裁はその部屋まで何とか来るという毎日の繰り返しになって、肖像画を大小2点描かれました。
安井さんも相当疲れて、少し休みたいと言っている時に、例の年末助け合い運動の追い討ちが重なったんです。何としてこれは期日に間に合わせてもらわなければ困ると言われ、責任感の強い人でしたから、無理をしたのがもとで風をこじらせて亡くなられてしまわれました。
」(対談『安井曽太郎の仕事をめぐって』富山秀男、原田実)

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 訪れたのは、10月27日の午後。平日ながら、会場は8分入りという盛況ぶり。
 層としては、中高年婦人グループが約三分の二といったところでしたが、年配の男性の姿もいつになく多くみかけられました。あとは、美術系の学生らしき若者もパラパラ。 
 雰囲気としては、熱心に見入る観客、満足げに見入る観客の姿が目立ちましたが、年配の層と比較的若い層とでは、受け止め方が微妙に違っていて、
年配の層は、ひいきの役者の芝居を楽しむような感じで、「旨い」ことを知っていて、それを味わいに来ているという様子で、一方の比較的若い層は、予想外の手応えに驚いているという様子でした。

 ちなみに、会場でクレームを申し立てている観客がいました。期待していた作品が無かったということなのですが、それに対する説明は以下のようなものでした。
 第一には、この展覧会は巡回展なのだが、最初の千葉そごうだか、どこだかの会場で出品されていたものすべてが今回の京都高島屋に来ているわけではないということ。
 第二には、したがって、図録に掲載されているものでも、実際は、会場に展示されていないものがあるということ。
 聞いていると、主催者の都合ばかりで、お客さんが抗議されるのも無理からぬところだと思いました。最低限、会場の入口前には、そのような事情がある場合には、注意書きは出してしかるべきでしょうし、今後について言えば、HPでの告知を望みたいです。

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ご感想などお寄せください。

いわやん(京都)
 安井曽太郎の作品を意識して見るのは今回がはじめてでした。名前だけは知っていましたが、これといった作品に出会う機会がなかったのです。
 今回、同展に足を運んだのも、したがって、期待というより、教養趣味といいますか、巨匠と評価されるような作家なのだから、知っておいたほうがいいだろうというような気分でした。
 ところが、会場半ばにもくると、そんな生半可な思いは見事に吹き払われ、次第次第にその醍醐味に舌をまく、舌なめずりするような具合になってまいりました。
 チラシに、「一旦対象を正確に捉えた上で、デフォルメや簡略化、また強調をすることにより、日本人の感性に根ざした、実感的によりリアルな画面に創りあげる手法」という説明がなされていますが、私に言わせれば、対象を「ぐぅわしっ」と鷲づかみにするような描き方なのです。チラシの説明だと何かこう計算してそのように作り上げて行くようなニュアンスに受け取れますが、私の印象では、おそらく「直感」であったと思います。じっと対象を見つめて、そしてそれが作者の中で「突然変異」して、あのような作品が形作られて行ったように思われました。
 安井曽太郎は、確かに少壮の頃からデッサンを良くした人で、ですから決して正確なデッサンが苦手だとか、写実が嫌いとかそういうことではないのですが、そういう段階は、おそらく若い時分に十分に消化したということでしょう。
 枝葉末節、細部によらずに、対象の本質を描くということに関心は移っていったように思われました。
 会場内のパネル説明に、ヨーロッパから帰国した当初、向こうで身につけていた技法が、日本の風物を描くのに適さないことに随分悩んだというような下りがありましたが、一時期、安井は様々なスタイルを試します。その時期だけ見れば、まさに臆面もなくというか、自分というものがまったくないかのようにです。
 ところがそうやって、あるいは、本当にギリギリまで自分を解体して、そうして安井は、「らしさ」を描くコツのようなものを会得したのではないでしょうか。ある時期を境に、おもしろいように対象をつかみとって行くようになるのです。以後の安井の作品は(特に、人物画は)、まさに名人芸といって良い趣を呈するようになります。
 そう、安井の絵には名人芸の風味があるのです。
 芸術には、自分の問題意識、直面している苦悩を表現するものもありますが、芸術とは決してそのようなものだけではない。苦心惨澹の末に会得した芸を見せるというやり方もあると思います。芸自体は、深刻なものでも難解なものでもなく、むしろ人々を愉しませるものであったりするけれども、でも、その裏側の重みというものがそれとなく伝わってくるという、そういう表現もあると思うのです。安井の芸術とは、まさにそのような名人芸の芸術と思えました。
 そして、そういう画家が、実は少ないということに気づかざるを得ませんでした。いや、画家ばかりではありません。自分自身、そういう生き方からすれば、かなり遠い道を歩いているわけです。芸を磨く、身につけるなどという地道な努力をやらないで、素のままに何かが出来るのではないかと思ったり・・・。おまけにそれが認められはしないかとひそかに期待するということですね。
自分のことはいいですが、安井曽太郎の絵を見て、一つのスタイルを鑑賞するというのではなく、一つの高みに上った人の見晴らしの良さのようなものを感じました。ぜひ、お勧めしたい展覧会です。

追記。先の文を書いた後に、図録の解説を読んだのですが、そこには、次のようなことが書かれていました。
「見事なまでに完成させた写実的な作品から離れ、少しずつ表現を変えていくんです。表現の整理というか、様式化というか、主観の投入というか、ともかくそうした操作を経て初めて完成へと導かれるのです。」(同展図録、対談、富山秀男氏の発言より)
 そうです。名人芸は、瞬間芸ではなかったわけです。
 しかし、強弁するわけではありませんが、私は自分の目が誤っていたのではないと思います。写し取ることから、絵をつくることへの移行が、それだけ自然になされていたからこそ、私の目には直感的に一気に完成に向かったように見えたのだと思うのです。
 ただ・・・、「名人芸」というか、現実の厳しさを理解する度合いが、どうも私の場合、甘かったようです。

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