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いわやん(京都)
「奇跡的な発掘」、「南宋」、「龍泉窯」などというまばゆいレッテルが並ぶ今回の展覧会ではありますが、質的には玉石混合であり、「玉」は少ないと思いました。資料価値はあっても、鑑賞にはそぐわないものが多いのですね。ですから、逸品だけを目当てにすると、全体的には期待外れのような印象になってしまいかねません。
ところが少し視点を変えて、逸品ではないものがこれだけたくさんあるというのは、どういうことなんだろうかと考えてみると、この展覧会の、ちょっと他にはない特徴がのぞいてまいります。
言うなれば、今回の展覧会の見所は、逸品ではないものも多数含んだ展示品を見て何を感じ、どう考えるかということになるかもしれません。これからお話する私の感想も、そのような見方の一例になるかと思います。
私が今回、主に考えたことは二つありました。
一つは、日本の伝世品の価値が再確認されたということ。もう一つは、現代の作家についてです。
まず一つ目についてですが、これまでは伝世品について、どちらかと言えば、たまたま見出されて伝えられてきたものという見方をしていたのですね。本当は、もっと素晴らしい物もあったんだけれども、諸事情があり、偶然の運命の明暗があって、運の良い物がごくごく一部残ったと。そんな風に想像していたわけです。
ところが、今回の出土品と比較すると、伝世品のほうが圧倒的に密度が高いわけですね。粒が揃っている。これは一体どういうわけか。どうも、とんでもない誤解をしていたようだと気づかざるを得ませんでした。
少し時代背景を説明しておかなければなりませんが、今回出土した陶磁器は、同じようなものが日本にも大量に輸入されていました。出土品については、陶磁器商人が埋めた物ではないかとの見方が強いようですが、それほどの大商人ではありませんから、上物はあまりありません。が、それは日本も似たようなもので、日本にも特別に上物が集中していたとは考えられません。今回の出土品と日本の伝世品との密度の差をもたらした主要な原因は、大量の類似品の中から激しく選別されたか否かでしょう。
伝世品を伝世品たらしめた理由は、偶然や運の強さなどという以上に、選び抜かれたということにあったのだと思わざるを得ません。不用意に扱うには惜しいと、優れた逸品だと多くの人が認めたからこそ、大切に受け継がれたわけです。
そのような意味でいうと、優れた逸品は、作り手ばかりでなく、用い手の眼によっても作られる(伝えるという形で)ということが、今回、まさに実感されたわけです。
南宋の作り手は、ブラジルのサッカー選手のように技術レベルが高かったようだけれども、用い手という対戦相手に恵まれなければ、好ゲーム、名ゲームとはならない。用い手という対戦相手に質的にも量的にも恵まれなかったということが、今回の出土品の多くが凡庸であった原因ではなかったかと。そんな風に思われたわけです。
もう一つ考えさせられたことは、現代の作家についてです。
実は今回、いつしかある作家を思い出し、比較しながら鑑賞していたのですが、途中で、「待てよ。これはもっとちゃんと比べる必要があるんじゃないか」と思い直しました。
仮にK氏としておきますが、K氏の似たような作品を展示品の中に紛れ込ませたとしたら、おそらく一般の人は気づくことがないだろうなと。人気投票などを行えば、K氏の作品がかなり上のほうにいくんじゃないかなどと、そんなことを思うともなく思ったのですが、そんな「南宋」とは一体何なのか。現在を生きる作家の作品と出土品とはどこがどう違うのか。両者はまったく別だという前に、きちんとした比較をすべきではないのかと、思いがわたしの中で徐々に加速していったのです。
「南宋」も玉石混合だったという事実は、裏返せば、現代の作家においても、「玉」は存在しうることを示唆しています・・・
このようなことは、理屈では容易に思いつくことですが、実感されることはなかなかないのではないかと思います。無作為に眠っていた発掘品の展覧会たからこそ、私もそれを実感することができたのだと思うのです。
この展覧会を紹介したいと思ったのは、そのような意味からです。
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