No.017 Last Up Date 2001,6,02

nansojpg.jpg (5571 バイト)
封印された南宋陶磁展
京都文化博物館
会期 1998,11,20-12,20
休館 12月16(水)日
料金 1000円

 



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封印された南宋陶磁展

 封印された南宋陶磁展1991年、中国・四川省遂寧市郊外の金魚村で、墓穴を掘っていた農民が、地下約1mの穴に整然と埋めてあった南宋代(13世紀)の陶磁器や青銅器、計1005点を発見しました。うち985点が陶磁器で、青銅器は18点、石器は2点でした。陶磁器のうち、350余点が龍泉窯の青磁、598点が景徳鎮の青白磁、28点が定窯風の白磁で、わずかながら耀州窯、磁峰窯、広元窯も含まれていました。1000点以上もの陶磁器類が一カ所から出土したのは中国国内でも初めてで、中国陶磁考古学上の十大発見のひとつに数えられています。
 本展では、陶磁器とともに出土した青銅器、石器も含めた計136点を展示します。白磁に淡い青みを帯びるうわぐすりを施した、景徳鎮の青白磁は11世紀初頭に誕生し、愛好されました。
 龍泉窯の青磁はその後、間もない時期に登場し、日本や東南アジア、中近東などへ大量に輸出されました。遂寧市から景徳鎮までは長江沿いに東へ約1000km、龍泉窯はさらに200km近い南東にあり、おそらく水運を利用して運ばれたと考えられます。
 同じサイズの皿や碗が10枚、20枚と揃っており、使用痕のない新作が多いことから、商品あるいは豊かな郷紳の持ち主が戦乱を避けて隠したのではないかとも想像されます。
『宋史』および『四川郡県史』によると、端平3(1236)年に元の大軍の侵入を受けて遂寧府城が破壊されたとあり、その際に埋められたのではないかと考えられています。
 日本でも馴染みの深い美しい輝きを放つ『砧青磁』の世界が、時を越えて、いま目の前によみがえります。」(同展チラシより)

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出品作品

龍泉窯
「青磁共蓋酒会壷」
「青磁管耳壷」
「青磁五管瓶」
景徳鎮
「青白磁刻花唐草紋共蓋梅瓶」
「青白磁刻花蓮花紋鼎形香炉」
「青白磁蛙形水盂」

ほか

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金魚村における南宋代窖蔵の重要な発見とその初歩的な研究
遂寧市博物館
庄文彬
「・・・ 窖蔵の様子から、これらの器物は緊急に埋められたものだと考えられる。場所の選択も充分には準備されたものではなく、埋蔵方法も大変簡単なものだった。磁器を穴を掘った中に直に埋めたということは、煉瓦や石を積み重ねて窖穴を構築する事が出来なかったということで、器物の保護にはきわめて不利な状況である。
・・・
・・・ 宋と蒙古との戦争は半世紀も続き、人口は流出し、土地は荒廃し、都市は放棄され、携帯できない貴重品は大量に地下に埋蔵された。これまでにも四川省内の各地では宋代の窖蔵がよく発見されていて、特有の歴史的文化現象となっている。・・・ これらの窖蔵では宋磁の出土は、少なくとも数個、多ければ何十個、百個近くに及ぶこともあるが、一挙に千件も出土したのは金魚村の窖蔵だけである。・・・
特徴として多くの大型宋磁の優品があることがあげられる。宋代の磁器は原料の関係で、大型器の焼成は多くは成功せず、従って発見されるものもさらに少ない。金魚村窖蔵では・・・器物は大型で、胎が厚く、形と構造は規格が統一され、胎釉は質量ともに良く、過去に発見された物の中でも相当珍しいものである。また、・・・多くの新しい器型が発見されたことにより、我々の龍泉窯青磁や景徳鎮青白磁の種類の認識を豊富にした。」(同展図録より、一部抜粋)

遂寧窖蔵出土陶磁の年代について
愛知県陶磁資料館学芸員
森達也
「・・・ 以上のように、遂寧出土陶磁器は、碗・盤を中心とした未使用の商品と、明らかに使用痕があるものとに二分できる。後者を中古品や骨董品と考えれば、陶磁器すべてが商品ということになる。しかし、かなり使い込まれた青銅器や石製品の祭祀具一式が含まれることから、これらの祭祀具を含めて、埋納者が日常に使用していた什器を商品とともに埋めたと考えるのが適切であろう。つまり、遂寧出土陶磁には、埋納者の生活用陶磁器と、彼が扱った商品とが混在しているのである。
最後に、年代についてまとめることにしよう。文献上の記載を基にした1236年または1243年埋納説から離れて、純粋に陶磁器の比較研究から埋納年代の検討を試みたわけであるが、資料の制約もあり、ある程度の幅をもった年代しか提示することはできない。遂寧出土陶磁は、12世紀代のものも一部含まれているが、大部分を占めるA類とした未使用の陶磁器はほぼすべて、13世紀初頭から13世紀半ば過ぎ頃までの年代に収まるといってよいであろう。この結論がただちに1236年または1243年説を裏付けるものとはならないが、少なくともこの陶磁器群が、1236年から30年以上にわたって続いた四川地域の戦乱をさけて地下に埋められた可能性は充分に考えられよう」(同展図録より、一部抜粋)


遂寧窖出土の龍泉窯青磁と新安沖沈没船及び日本伝世品との比較
大阪市立東洋陶磁美術館学芸館長
出川哲朗
「・・・ 中国陶磁の日本への輸出は晩唐代から本格的になり、北宋から南宋、元代の青磁や白磁の輸出量は実に膨大な数量である。その中で、伝世として幾多の世代を経て伝えられる過程において、南宋後期の龍泉窯の製品が優れたものが多いとして高い評価を与えられながら、現在まで伝えられている。これらに共通するのは、3層ないし4層に釉薬がかけられていて、釉薬が厚く、粉青色に発色していることである。また造形的には南宋官窯風のシンプルなもので、装飾的な刻花や貼花の模様がほとんど見られず、また高台の畳付の幅が狭い。日本に数多くの龍泉窯青磁が将来されている中で、特に優れた磁青磁が伝世しているのである。それらは将来された中から、ある美意識に基づいて、選択されてきた結果なのであるが、長い歴史を持つ龍泉窯全体の中でも最高のものを選び取っているようである。
ところで、この伝世の磁青磁に類似するものが、遂寧金魚村から多数出土したことから、龍泉窯の同時代の製品が特に好まれ伝えられたということになる。つまり日本に輸出された全体の青磁の中での伝世の名品の割合に比べれば、今回出土した青磁に占める伝世に該当する率は異常に高いわけである。もとより、13世紀後半の龍泉窯の最盛期の製品が中心とあれば、当然の結果かもしれないが、それでも、金魚村の出土品に伝世品に該当するものが多数見られるのは注目していい。つまり、長い時間をかけ、高い評価を得た青磁は結局のところ南宋後期から元代にかけてのものであり、質的にはそのころが最も充実していたことになる。しかし、遂寧金魚村出土のものがすべて素晴らしいわけではないことも事実である。」(同展図録より、一部抜粋)


四川遂寧発見の南宋窖蔵出土の陶磁器とその意義
出光美術館学芸課長
弓場紀知
「・・・ 遂寧窖蔵から出土した陶磁器や青銅器はこれまで見てきたように特殊な器ではなく、また特に上質な陶磁器というものではない。きわめて日常的な器ばかりである。それに時代的にも近接したころの作品であることはこれまで述べた通りである。
・・・ 宋代の窖蔵遺跡で陶磁器がこれほど大量に出土したことはかつてないことであり、また器種の豊富なことは驚くべきことである。遂寧出土の龍泉窯の青磁や景徳鎮窯の青白磁は日本の伝世品や中世遺跡出土の船載陶磁に類するものが極めて多く、日本における貿易陶磁研究の上でも重要な資料であることは言うまでもない。」(同展図録より、一部抜粋)

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guide 作品 図録 会場風景 感想
 
 訪れたのは、11月24日の午後。混雑を避けて連休明けの平日を選んだのですが、会場は拍子抜けするほどの静かさ。最初は1〜2分入り程度で、夕方近くになってようやく3分入りといったところ。先だっての、「京の絵師は百花繚乱」のときと比べると大違いでした。
 観客の層としては、中高年の婦人グループが過半数。それから、同じく中高年の婦人単独がちらほら。定年後の夫婦が二、三組。夕方になって、男子学生らしい単独が数名、女子学生のグループが一組、といったところ。
 観客の数は少なかったが、おしゃべりが多く、残念でした。
 さて、展示内容についてですが、奇跡的に発掘されたものぱかりとは言っても、要するに玉石混合であって、かつ、玉はごく一握りしかありませんでした。そういう意味では、マニアックな展覧会だといえなくもありません。
 当然、観客の反応も鈍く、観客の多くは多少なりとも陶器好きのようでしたが、それでも多くは退屈を隠せない様子でした。展示の方法にもう少し工夫が必要だったかもしれません。

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ご感想などお寄せください。

いわやん(京都)
「奇跡的な発掘」、「南宋」、「龍泉窯」などというまばゆいレッテルが並ぶ今回の展覧会ではありますが、質的には玉石混合であり、「玉」は少ないと思いました。資料価値はあっても、鑑賞にはそぐわないものが多いのですね。ですから、逸品だけを目当てにすると、全体的には期待外れのような印象になってしまいかねません。
ところが少し視点を変えて、逸品ではないものがこれだけたくさんあるというのは、どういうことなんだろうかと考えてみると、この展覧会の、ちょっと他にはない特徴がのぞいてまいります。
 言うなれば、今回の展覧会の見所は、逸品ではないものも多数含んだ展示品を見て何を感じ、どう考えるかということになるかもしれません。これからお話する私の感想も、そのような見方の一例になるかと思います。

 私が今回、主に考えたことは二つありました。
 一つは、日本の伝世品の価値が再確認されたということ。もう一つは、現代の作家についてです。

 まず一つ目についてですが、これまでは伝世品について、どちらかと言えば、たまたま見出されて伝えられてきたものという見方をしていたのですね。本当は、もっと素晴らしい物もあったんだけれども、諸事情があり、偶然の運命の明暗があって、運の良い物がごくごく一部残ったと。そんな風に想像していたわけです。
 ところが、今回の出土品と比較すると、伝世品のほうが圧倒的に密度が高いわけですね。粒が揃っている。これは一体どういうわけか。どうも、とんでもない誤解をしていたようだと気づかざるを得ませんでした。
 少し時代背景を説明しておかなければなりませんが、今回出土した陶磁器は、同じようなものが日本にも大量に輸入されていました。出土品については、陶磁器商人が埋めた物ではないかとの見方が強いようですが、それほどの大商人ではありませんから、上物はあまりありません。が、それは日本も似たようなもので、日本にも特別に上物が集中していたとは考えられません。今回の出土品と日本の伝世品との密度の差をもたらした主要な原因は、大量の類似品の中から激しく選別されたか否かでしょう。
 伝世品を伝世品たらしめた理由は、偶然や運の強さなどという以上に、選び抜かれたということにあったのだと思わざるを得ません。不用意に扱うには惜しいと、優れた逸品だと多くの人が認めたからこそ、大切に受け継がれたわけです。
 そのような意味でいうと、優れた逸品は、作り手ばかりでなく、用い手の眼によっても作られる(伝えるという形で)ということが、今回、まさに実感されたわけです。

 南宋の作り手は、ブラジルのサッカー選手のように技術レベルが高かったようだけれども、用い手という対戦相手に恵まれなければ、好ゲーム、名ゲームとはならない。用い手という対戦相手に質的にも量的にも恵まれなかったということが、今回の出土品の多くが凡庸であった原因ではなかったかと。そんな風に思われたわけです。

 もう一つ考えさせられたことは、現代の作家についてです。
 実は今回、いつしかある作家を思い出し、比較しながら鑑賞していたのですが、途中で、「待てよ。これはもっとちゃんと比べる必要があるんじゃないか」と思い直しました。
 仮にK氏としておきますが、K氏の似たような作品を展示品の中に紛れ込ませたとしたら、おそらく一般の人は気づくことがないだろうなと。人気投票などを行えば、K氏の作品がかなり上のほうにいくんじゃないかなどと、そんなことを思うともなく思ったのですが、そんな「南宋」とは一体何なのか。現在を生きる作家の作品と出土品とはどこがどう違うのか。両者はまったく別だという前に、きちんとした比較をすべきではないのかと、思いがわたしの中で徐々に加速していったのです。
「南宋」も玉石混合だったという事実は、裏返せば、現代の作家においても、「玉」は存在しうることを示唆しています・・・

 このようなことは、理屈では容易に思いつくことですが、実感されることはなかなかないのではないかと思います。無作為に眠っていた発掘品の展覧会たからこそ、私もそれを実感することができたのだと思うのです。

この展覧会を紹介したいと思ったのは、そのような意味からです。

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