No.036 Last Up Date 2001,6,02

tsuchi.jpg (5238 バイト)
土谷武展
京都国立近代美術館
会期 1998,12,8-1999,1,17
休館 月曜日
料金 830円

 



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土谷武展

土谷武展しなやかな造形、生成するかたち
彫刻家土谷武(1926年生)は鉄や石を用いた個性的な彫刻あるいは立体作品で知られています。さまざまな素材との対話に時を費やし、物性を活かしながら、楽しげに不思議な『かたち』を生み出して、創意溢れる造形の世界を築いてきたと言えるでしょう。
土谷は京都の窯元の家に生まれ、京都市立美術工芸学校を卒業に上京、戦後まもなく東京美術学校彫刻科を卒業し、ロダン以降の近代彫刻の伝統の理解を踏まえて、正統的な具象彫刻を新制作協会に発表しました。ところが1961年から2年間にわたるフランス留学を機に、『構成』による抽象彫刻を開始し、それ以降、新制作展や野外彫刻展に出品して受賞。また、アントワープ国際野外彫刻ビエンナーレ展(1975年)やサンパウロ・ビエンナーレ展(1983年)にも出品して、戦後日本の現代彫刻発展の一翼を担いました。こうした活動によって、芸術選奨文部大臣賞(1995年)、毎日芸術賞(1995年)などを受けています。
土谷は主として鉄を相手に、手と時間をかけて土と対話しながら、素材の感情、立体の構成、空間の構造、『自然』の現われなどを抽出して、立体造形作品を生命感あふれる「構成」として提出しています。戦後美術の展開の中で土谷が堅持した手の思考ともいうべきもの、すなわち、手を通してものを見つめて考え、かたちを創り出し、発見するという態度からは、造形の厳しさと楽しさが私たちに伝わってきます。
この展覧会は、初期の具象彫刻、滞仏以降の『構成』、かたちをめぐる素材との対話、近年の『植物空間』へと、出品作約180点によって土谷の造形世界の展開の各時代を追いながら、その仕事を跡付ける回顧展です。日本の現代彫刻を代表する土谷の、こうした豊かな思考と作品の展開をたどりながら、さらに、伝統と革新、『彫刻』と『現代美術』、造形の構造と『自然』といった問題を造形の現在に投げ返そうとするものです。」(同展チラシより)

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出品作品

呼吸するかたちc
あるく
門Z−b
開放W
華のように、木のようにa
向かい風U−a
虫の領域U
いきものU

ほか

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図録から
『かたちのいのち/いのちのかたち
ー彫刻家土谷武の造形精神』 東京国立近代美術館主任研究官
高橋幸次序:かたち
彫刻家土谷武(1926年生まれ)は鉄や石を用いて、個性的な彫刻あるいは立体作品を制作してきた。様々な素材との対話に時を忘れ、物性を生かしながら、楽しげで不思議な「かたち」を生み出して、創意溢れる造詣の世界を築いてきた。ところがその一方で、捉えどころのない彫刻家あるいは造形作家と見なされているようである。伝統彫刻から出て、きわめて現代的な感覚を持ち、しかしいわゆる「現代美術」には収まりきらない独自の世界を築いてきたからであろう。新制作展や野外彫刻展での発表や、いわゆるパブリック・アート作品の設置などを通して、その世界は開かれてきた。
土谷は主として鉄を相手にして、手と時間をかけて素材と対話しながら、素材の感情、立体の構成、空間の構造、「自然」の現われなどを抽出して、立体造形作品を生命感溢れる「構成」として提出している。ものを見つめて考え、手とともに創り出し、発見するという制作態度による造形からは、生命やものの息遣いが伝わってくる。それは何よりも「かたち」を求めての営為である。具象という領域
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フランスに留学しても、土谷はいきなり抽象彫刻を開始したわけではない。具象彫刻の制作がしばらく続くのである。
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土谷は1950年代中頃に美術雑誌でジェルメーヌ・リシェ(1904−1959年)を知った。渡仏以前である。この頃の日本はムーアやマリーニの影響が大きく、この二人の彫刻に似せて造るだけで現代作家と言われたほどだったという。土谷はたちまちリシェの不思議な生命力の魅力に取り付かれた。人間の陰の世界を取り上げたリシェは、フランス彫刻の伝統のなかでは異例の存在であった。土谷はリシェの『歩く人』(1940年ブロンズ)に近代と現代の時代の転換を見ている。
「これは男の像ですが、病に苦しめられたリシェの分身のように思われます。手や足でバランスをとりながら、たよりないひそやかな歩き振りは、リシェの意図したものがロダンと異質であることを示しています。リシェの造ったものは同時代の生きている人間であり、ロダンのそれはローマやギリシアを受け継いだ古典に規範を求めた彫刻です。そしてブールデルもロマネスク、ゴシックへ回帰し、ロダンとやはり同質であると考えられます。繰り返しますが、リシェは運動や均衡の考え方でも明らかに現代的です。
たとえば危険に身をさらした総毛だったものが、次にどのような動き方をするかは誰も予測できないのではないでしょうか。不安定で一見倒れそうに見えても、次の動きを不安定の中にはらむことによって、かろうじて均衡を保っているような形態は古典的な方法からは考えられません。
主題もまた、近代までの若さや優美さ、生きることや力への渇望に対して、リシェは純潔や狂気、老い、それに自然や動物や昆虫に対しての強い関心に変わっています。
それでも初期から中期にかけてのデッサンや彫刻にみられる熱っぽい追求や、立体表現への新しい模索が、病気の進行や体力、気力の衰えとともに影をひそめ、恐怖や幻想からの所産に変わってゆくのは、痛ましいことです」(*土谷)
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フランス留学で土谷は新しい時代に目を向けたと同時に自己の道を見出した。しかし彼が具象から抽象へと転身した、あるいは具象を放棄して抽象に飛びついたと結論づけるのは早計であろう。人体という宝庫、その生命感の描出、構造の把握、自然を見る眼から、彼の「抽象」は力を得ているのである。ロダンの文脈でいえば、彫刻においては「自然=人体」なのである。スケールは等身大であり、人体を基本オーダーとした世界把握が主軸である。これは、模型から拡大して人を覆う建築や、絵画的なものを周囲に配置するインスタレーションとはもともと性格が異なる。実に「彫刻」ならではのものである。門:構成と構造
『門』は自らの原点であると土谷は定位する。
「日本にいると、欧米の新しい美術をどのくらいマスターしたかで賞がもらえた。そんなふうでいいのかとの疑問からパリの美術学校にはいったのですが、周囲の仲間からはお前のやっていることはうまいけれども他人のものまねだ。それは美術でも何でもないと言われた。・・・こういう体験から、自分は自分でなくてはならないと感心させられました。・・・35歳の時、パリの学校から建築の古材をもらい、それで門みたいな初めての抽象彫刻を作りました。マリーニとかムーア風の作品をつくっている時は正直言ってつらかったのです。それがこの作品をつくるのは面白くて仕様がなかった。貧しくても、つまらなくてもいいから、自分は自分でなくてはならないと痛感した体験でした」(*土谷)
土谷の『門』は、ロシア構成主義や60年代以降のアメリカの視覚的彫刻やイギリスのプライマリー・ストラクチャーズといった、いわゆる「構成」彫刻の流れとは異なり、良くも悪くも多分にフランス臭さを帯びながら、個人史と様式を開拓して行ったと言いたくなるものを持っている。つまり「構成」という文脈から溢れ出すものを持ちつつ展開しているということである。木材の構成から始まったとはいえ、つまるところ『門』はかたちをつくる塑像として展開するのである。
「1962年、パリの美術学校の学生であった私は、彫刻から彫刻を造ることしかできなくなっている自分に絶望していた。何とかして私の好奇心をじかにかたちに出来ないものかと、さまよい歩く思いであった。
あるとき、実在教室の教授からもらった4本の梁の古材を、際限ないくらいくっつけたり、削りとったりしているうちに、鳥居のようなかたちになってしまった。
鳥居のようなかたちを造りたかったのではなく、木の本数や、長さ、太さ、またその形状から、自然発生的にできあがったかたちであった。
この初めてのたどたどしい試みは、私のまわりの人達の失笑と憐憫を買った。けれども自分が面白くて虜になっていることだから、人の反応などたいして気にもならなかった。それは鳥居のようなかたちであったから、とりあえず『門』というタイトルにした。
門とはもともと、出入り口としての実用からできあがったものであろうが、それはこちら側と向こう側とを意識的に異なった空間として捉えるものであり、閉じられたり、開かれたり、逃げ込んだり、しめだしたりというようなポイントとして象徴的な意味をもっている。
初めての非具象の作品が、このようなものであったことを、私は自分にとって何か啓示的な出来事であったと感じている。
『門』は私の原点である」(*土谷)。
鳥居のかたちというが、『門』は2本脚のものから、奥行きを生み出す3本脚に、さらには『Portail』のシリーズでは縦横高さの直線的な柱に面と斜線が加わる。床面に1ないし2本の柱が横たえられているのが眼をひく。見通しながら留まったり踏み越えたりする3次元構造が提示されている。
『門』は立つ形である。ここには確かに人間が立っている構造が読み取れる。脚は立つことを前提とし、人物像の構造と意味を引きずっている。
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かたちと素材
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「彫刻家だったら石も木も金属もやってできないことはないと自覚したのだった。つまり彫刻家としての解放感と双手でさまざまな素材に挑戦したいという価値をもったのである」(*土谷)。
帰国後の土谷の探求は、様々な素材と戯れながら、あるいは格闘しながら、かたちをめぐって、旧来の肉付け(モドレ)を空間に展開するという新しい試みを開始する。・・・・・
かたちと伸展、緊張、量
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帰国後の土谷は『門』の構成を続けるが、1964年からは石に取り組んでいる。・・・・・石の『砦』やアルミニウム鋳造や石の『柱』、鋳鉄の『番人』などは、結局は結局は構成として石の『握手する人c』に集約されるように思われるが、ここではまず「穴」が土谷の関心事であった。
ところで「穴」ということでは、確かに1950−60年代の日本には「環=穴」が頻出する。イサム・ノグチの『黒い太陽』、をはじめとする、無や太陽を象徴した円環のシリーズ、前衛的オブジェ陶芸の八木一夫の『ザムザ氏の散歩』、絵画では吉原治良の『黒地に白』などである。・・・・・土谷の穴は、何か既存のものを転用した象徴ではなく、行為のかたちなのである。あれほどかたちの象徴性とそのヴァリエーションを求めたイサム・ノグチとも、土谷のかたちは異なっている。土谷はかたちないかたちの素材と対話しながらかたちを見出すのである。それは何かのかたちに似ているとしても、引用や参照ではなく、生まれたかたちなのである。
「『握手する人』は、初め手軽に発泡スチロールで造った。底面を除く直方体の五面に縦、横の直線だけでデッサンして、こちら側と向こう側を通じる穴を開けたいと思った。おそるおそる彫り進むと五面から彫っていたのでゆきどまりになったり、突き抜けたりして、構造ばかりが露出した思わぬかたちが出現した。
これをマケットにして初めて稲田(茨城県笠間市)の石切場でひと夏かけて石を彫った。このとき石を彫るということは、かたちを拵えることではなく、穴を彫ることに尽きるのではないかと思った」(*土谷)。
石を彫るとは「穴を彫ることに尽きる」との実感は、ミケランジェロのような直彫りで石塊からかたちを彫り出すという考えとは違って、ピカソやアーキペンコなどのキュビズムの彫刻や、ムーアやヘップワースの行った、量塊内に空間を導き、外と内の空間を繋ぐ事で、彫刻をめぐる新しい空間の創出をめざす発想に近い。
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「虫」が登場する。・・・・・ 自分の子供の頃の記憶に由来するこうしたかたちは、具象ともいえるが、ブランクーシがそうであったように、人間像ではもはや現し得ない、私たちの思想や感情、原初的な生命の取り戻しを目指しているように思えてならない。しかし、反文明的な悲壮感ではなく、ユーモアとおおらかさこそが「生命」を導いているのである。子供のような心は、土谷の不退転の地点である。しかし、それは再び選び取られ続けたものであるように思われる。生命と自由は単に与えられるものではない。
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切断と成形、作業台というメタファー
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「厚い鉄は、それ自身が強い存在感をもっている。多少の細工をしようとしたところで、造る側が負けてしまいそうな、人など寄せ付けない威厳がある。
だからイメージの独創を抑制し、精神も感性も否応なく『鉄』という物質を通過させられるのかもしれない。これに立ち向かうのにきわめて原初的な『切る』という行為しか思いつかなかった。・・・・・鉄は『熱の塊』であることに思い至った。
形を造るために熱を使うのではなく、製品としての熱の表皮を剥いで、遠い昔人間が発見した元素としての鉄と、自分なりに真っ向から向き合っているような気がした」(*土谷)。
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「10cmの無垢の鉄の角柱はパイプと異なって、殆ど実用性が感じられません。そのかわりに得体の知れないエネルギーや磁力を秘めているように見えます。・・・・・120cm角の鉄の台の上に、2本の角柱の先を格子状に奥行き10cmほど機械鋸で切って、それぞれに100本の触覚をつくりました。・・・・・ 私はこっそり、自分なりに鉄の働きを納得したものです」(*土谷)。
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「鉄の角筒にきわめて人工的なあるいは観念的な運動を与えてみたい衝動から始められました。いたずらにあれこれやっているうちに、何とかうまく動いてくれて、かえってその運動の論理をこちらがもう一度納得しようと観察しなければならなかったほどです。
・・・・・ 必要最小限の構造を除きますと、何も彼もがその場その場の推量の域を出ない感性の所産で、『風』はまったく自分の造形上の欲求のためだけで造られたものです」(*土谷)。
土谷の欲求の底には、動かしてみよう、息づかせてみよう、生命を見えるようにしようという思いがあったに違いない。こんなにも力を秘めた物質が、かたちを得て生成するのを見守っている。
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運動の方向と力
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土谷は、鉄と石を組み合わせた野外彫刻で、野外彫刻展や屋外設置に華々しい活躍を見せた。そのなかでも『挑発し合う形』がもっとも特徴的である。鉄も石ももちろん生の素材や工業部材ではなく、要素としての形を持っているが、ここで探求されているのは、運動のイリュージョンの演出ではなく、かたちと配置から、彫刻の場所に内蔵されるエネルギーをどう見せるかが問題となっている。・・・・・

呼吸する植物・空間、そして開放へ
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自由へ
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彼はユマニストである。近代日本の造形において、高村光太郎が時代によって西欧の理想と日本の現実の真っ二つに引き裂かれたユマニストであり、柳原義達が抵抗と孤立をもって立つ西欧西欧流理想主義のユマニストならば、土谷武は現実主義のユマニストである。京都の文化と歴史、戦中の日本の悲惨、フランス体験、戦後日本の屈折、こうしたものを見据えながら自分を通した人である。精神の高さと心の優しさを貫いた人である。それゆえ、かたちを求めた彼の造形の奇跡は、変幻自在、時代の潮流に敏感に反応もしながら、自然を見詰め、素材と語り合い、かたちの創出をとおして、人々の心に豊かさの種を蒔くのである。性急でなくゆっくりとかたちが現れるのを待ち、ルサンチマンや屈折の反映でなく、造形の厳格さと楽しさを実現する希有な人格なのである。文化と手業に培われ、まっすぐに見る眼があって、常に厳しい距離を保ちながらも、距離の消失、主客合一の瞬間のかたちが目指されているように思われる。
今、土谷は様々なかたちの探求から、ついに『開放』に至った感がある。あたかも風を大きく孕んで滑りはじめた帆船の出帆のように、このおおらかな呼吸、「かたち=空間」はどこに行こうとしているのだろうか。
『土谷武 あるいは自由な心
ー最近作を中心に』 茨城県立近代美術館副主任学芸官
荒木扶佐子・・・・・
・・・・・風に舞う枯葉を表したような作品から、土谷はひとつの壁をつきぬけたような大きな展開を迎える。それらの作品は、ふと風がやんだ瞬間、地面に舞い降りた木の葉という風情を絶妙に表現しているが、そうした構成的表現力というのは、土谷の生来の造形センスの良さに一層磨きがかかったとして説明されうることである。特筆すべきは、薄い鉄板を叩き、さらに叩いて作品を制作しているという点にある。土谷の作品において、鉄という素材がこのように使われたことはなかった。
「振り返ってみれば、長い間分厚い鉄ばかり使っていたが、80年代の末、植物に関心を持ち出してから薄い鉄板を使うようになった」と彼自身記している。薄く鍛えられた鉄板の表面は、まるで複雑な地形の等高線のような模様を浮かび上がらせている。この表面のテクスチュアは、鉄という素材を使った作品に全く新しい次元を開いた。
植物という有機物、時とともに姿形を変える命あるもの。「薄板に注目した頃と前後して、私にとって空間の意味が大きく重くなってきた。もののまわりや隙間の無色透明な空なるものという意味ではない。ものはすべて空間に内包されていて、空間も又、物質であるという認識に立ってのことである。空間はものと同様に匂いも色も質も量さえももっていて、時には揺れ動いているものに拮抗している。といっても、『気配』とか『気』ではなく物理的に私たちが等しく支配されているものといってよい。私にとって『空気や空気の振動である音まで含めて、その存在を仮託するものとしてのかたち』が必要となった」(*土谷)。叩く事によってできたこの表層は、土谷が意図したこの空間表現にとって、大変重要な要素となる。

・・・・・

土谷武が、鉄という彼が以前から親しんできた素材を、このように、今までとはまったく異なった手法で扱うことができたのは、彼が素材に対して常に距離感を抱いて制作を続けてきたからと考えられる。土谷は石、木、鉄など様々な素材を使ってきたが、それぞれの素材を使うに当たり、その素材を生かそうとか、その素材に『頼ろう』という姿勢は決してない。例えば、鉄による『風』や『歩く鉄』を作ったとき、その主題と素材とのギャップから生まれる面白み、あるいは驚き、あるいはユーモアといったものが話題にされがちであるが、土谷の場合にはそういう意図のもとには制作はされていない。「鉄の角筒にきわめて人工的あるいは観念的な運動を与えてみたい衝動から始められました。・・・(中略)・・・必要最小限の構造を除きますと、何も彼もがその場その場の推量の域を出ない感性の所産で、『風』は、全く自分の造形上の欲求のためだけで造られたものです」(*土谷)。また、彼はこのようにも述べている。「(中略)このような現象をそっくりそのまま実施するものとして、木や石や鉄などの存在を考えたことはない。/つまり、素材を手の内に入れて動くとか歩くとかということを、なぞらえているのではない」(*土谷)。
ユーモアや奇を衒った作品なら、造形性はすぐに風化し、作品は色あせて見えてしまうだろう。彼の作品がそうはならないのは、素材に寄りかからない造形の意志というものが確固としてあるからなのである。
素材への距離感−−この言葉は、私が土谷武の作品を見ていつも感じていたことである。だが、彼は素材に対してだけではなく、自らの造形の意志というもの以外、あらゆるもの、あらゆることに対してスタンスを保っている。それは1961年から3年間のフランス留学で、古今東西を問わず、大家と呼ばれる作家やその作品に心酔し、それらと一体化しているという錯覚からは真の作品を生み出すことはできないということを学んだことによる。「私たちと典型の間にはつねに一定の距離があります。・・・(中略)・・・私は今では、この距離の自覚がなくては、ものを創ることなどできないのではないかと考えています」(*土谷)。
土谷の自由さとは、この距離感から獲得されるものなのだ。しかし、それは何と孤独な営みなのだろう。この孤独な営みから、時に楽しげで、時に軽やかな作品が生み出されているとは。

さて、ここで、最近の作品に再び戻ってみたい。薄い鉄板を使った作品はいくつかのバリエーションを形作っている。『植物空間』以降の、『呼吸するかたちA』や『呼吸するかたちB』、『呼吸するかたちーー内と外』、そして『虫の領域』などに見られる特徴は、作品に中心を作らないということである。大きく開かれた開口部を持つもの、通り抜けが可能な空洞のあるものなど、中心がないこれらの作品は、自らを空間に解き放そうとしているかのようである。あるいは、作品が環境と同化しようとしていると言うこともできるかもしれない。作品が環境を内包し、また環境が作品を内包する。「からっぽが大切」といったのは、イサム・ノグチである。「それはこちら側と向こう側とを意識的に異なった空間として捉えるものであり、閉じられたり、開かれたり、逃げ込んだり、しめだしたりというふうなポイントとして象徴的な意味を持っている」(*土谷)。これは、土谷がパリ留学中に初めて制作した非具象の作品『門』について記した文章であるが、この作品から約30年後、、土谷の作品は、『門』と同じように空洞を持つ作品でありながら、こちら側と向こう側の区別のない作品へとたどり着いた。土谷の最近作は、従来の意味とは全く違う意味で、「環境彫刻」と名付けたくなるものである。
そして中心を持たない作品は、重力の束縛からも自由になったような『開放』という作品へと発展する。『開放』は解放でもある。今世紀、彫刻が身軽になろうとして捨て去ってきたものはたくさんある。それは、彫刻というものの存立さえ危険にさらす自己破壊的なものであったといえよう。しかし、土谷は「てわざ」という彫刻の原点に帰って彫刻を解放しつつあるのである。

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 会場半ばに至るまで、他の誰にも出会うことがありませんでした。自分以外の観客が皆無だったのです。やっと人影が見えたと思ったら、それは観客ではなくて職員で、どうやら監視員の女性らを励まして回っておられる様子でした。
 わたしにとっては、とても楽しめる、手応えのある内容であっただけに、閑古鳥がいっそう惜しまれました。

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いわやん(京都)
 土谷武について、まったく予備知識なしに(知らずに)会場を訪れました。事前の期待というか不安は、「半端な抽象、時代後れの前衛のようなものでなければいいのに・・・」という程度のものでした。
 ところが、階段を上りつめて会場に入るやいなや、入り口正面に置かれた作品が目に入るや否や、「この人は、ちょっと違う」(危惧していたような作風と)と感じられました。
 当日、会場内の観客は異常に少なく、会場半ばに達するまで私以外の観客の姿が皆無(!)という有り様だったのですが、作品のほうはそんな事とは裏腹にまったくおもしろかったわけです。感じたところを順を追ってお話します。

「廃材」、「空き地」、私にはまずそんなイメージとして入ってきました。
 なんとなく懐かしい気持ちになったのです。私の場合、どういうわけか、子供の頃というと空き地の印象が強いのですね。乾いた土の色と雑草の緑、そして石材やら古びた木材、錆びた針金などが一緒に描き出されるのですが、歳を経るに連れて思い出すこともなくなっていたそのような時間、光景が、今回の展覧会場でふいに思い出されたのです。
 ただし、子供の頃が思い出されたといっても甘くはありませんでした。童話めいた作品づくりがなされているわけではないのです。それは「廃材」についても言えることで、一般に廃材を使った作品、廃虚をイメージした作品は少なくありませんが、この作家の「廃材」に似た作品は冷たくはありません。廃材というものが、もたらしがちな崩壊とか文明批判とか、厭世的な気分と言ったようなものは感じられないのです。
 作品の間を巡っているうちに、この作家が表現しようとしているのは、現実に存在する何かや、あるいは情緒のようなものを示唆したり追体験させることではないのではないかと思えてきました。
 私は、たまたま子供の頃の空き地を想起しましたが、人によっては自然であったり、どこかの営みであったり、あるいは心の中の何かや思想のようなものを想起するかもしれません。
 私が、子供の頃を想起したのは、時の流れを岸辺でやり過ごすような、そんな時間を過ごした経験が、たまたま子供時分にしかなかったからかもしれません。
 土谷が目指すのは、受け手に何かのカタチを想起させることではなくて、もっとベーシックな何か・・・。
 具体的なものや情緒的な何かを喚起させることがあっても、伝えたいのはその先にあるのではないかと。次第にそんな気がしてきました。

 喚起されたイメージに続いてやってきたのは、
               ・・・時間、
               そして・・・・・空間でした。

 物を加工することで空間を表現するとか、静止した物で時間を表現するとかというと、禅問答のような、芸術家特有の言い回しのように思われる方もあるかと思いますが、私は今回、かなりリアルに納得してしまいました。そういうことはあるんですね。
 土谷の彫刻家としての功績は、この時間と空間ということで言い尽くされるかもしれません。

 私には、なおもう少し話をしたい気持ちがあるのですが、ですから、この後の部分は、彫刻家土谷の話というよりは、人間、土谷の好みに関することになるかもしれません。今回、私にはその後者の面にも共感するものがあったのです。

 先ほど、厭世的だとか文明に批判的なニュアンスは感じられないと言いましたが、土谷の作品には、攻撃的なもの、刹那的なもの、あるいはロマンチックなものはほとんど感じられません。
 血気にはやる若者には、おそらく退屈と感じられるような、午後のひだまりのような時間と空間が、止まっているかのように流れています。
 ひだまりで・・・じっと眼を閉じてひなたぼっこしている老人の時間、と言ってもよいでしょう。静かに、傍目には微動だにしない時間・・・。しかし、老人が虚ろではないように、のどかな静止した時間の中に、土谷のたぎるような思いが秘められているように感じられるのですね。のどかなひだまりが、実は太陽の、とてつもない爆発的な燃焼で、もたらされているように・・・・・全力で、退屈な平和を築こうとしているかのような姿勢が、この作家には感じられたのです。

 土谷について語られる場合に、素材との対話ということがしばしば出てまいります。自分の描いたイメージを具体化する手段として素材を利用するのではなく、また素材を生かそうとして何かを作るのでもなく、素材と対話しながら形が生み出されていくようだと。この姿勢は、物づくりにおいてだけでなく、そのような関係の持ち方が、いわば土谷の生き方なのではないかとも思われます。
 土谷は散歩を大切にするそうですが、彼は物をつくらぬ時にも、ゆっくりと立ち止まり立ち止まり歩きながら、さまざまなものと会話を楽しんでいるのではないでしょうか。
 樹々や石ころを擬人化するのではなくて、樹々や石ころのあるがままの存在に、土谷のほうから近づいていくような、そんな光景が想起させられます。
 そして、そういうことには時間がかかるわけです。静かにじっと耳を傾け続けなければ、木の葉や虫はこちらに自らを語ってくれませんから。
・・・退屈な平和とは何か。それは小さなものの声にも静かに耳を傾けられる時間ではないのかと、そんなことまで考えさせられたくらい、土谷の時間には黙した迫力もあるのです。一見何の変哲もないおだやかさなんですが、静かさが一つのメッセージとも受け取れる。

 土谷の造形は、時にちゃちに見えます。ある意味では、歳を経るにつれて稚拙になっているようにも見えます。しかし、造形がそのように無造作になるにつれて、逆に、原初的な生命感のようなものが感じられるようにもなるのですね。
 会場の構成順序に従って言えば、物に生命を与えようとしていたかのような作品から、次第に、物が勝手に動き出すかのような作品に変わってまいります。
 先ほど、土谷には破壊して再生を目指すような感じはないと言いましたが、会場中ほどの作品群は、勝手に蘇生しているんですよ。
 焼け野原に一つの芽が吹いたというような、そのように美しく感動的なものではなくて、あたり一面に散乱していた破片が、ふいに死んだふりをやめて起き出した、というような感じなのです。生命は与えられてはいません。生命は向こう側にあるのです。
 この生命が向こう側にあるという感じがとても良いのですが、・・・どう言えばいいのでしょうか。
 そう、たとえば、ある作品を通して作者と向かい合っていると感じられることはままあるかと思いますが、この作家の場合は、ある作品を眺めていると、傍らでやはり作家もまた作品を眺めているというような感じなのです。そして、その作品の勝手なふるまいぶりを確かめて、作者自身がほほえんでいるというような。
 あるいは、作品は演技させられていないとも言えます。作品は生きていることが何よりもの存在の証であるというように、それ以外のことをしようとしていない。何かをやらされてもいなければ、何かをやらねばと苦悩しているわけでもない。何とも小癪(こしゃく)なんですが、その小癪さに安心させられるような感じがあるのです。
 つづいて、勝手に生きているかのような作品群の次に登場するのは、平面で構成された作品群でした。
 それらのコーナーで想起されたイメージは、ホームレスの小屋です。そして、そのイメージに続いてやってくる感じから、この作家が生命との間に、また新たな関係を築きつつあることが察せられました。
・・・ホームレスの空き家は、主の去った空虚ではなく、主の留守宅の気配を漂わせていたのです。つまり生命を感じさせるものはあったけれども、それはもはや作品から離れて存在していたわけです。作品は生命をその内にとどめずに、生命を解き放ちながら関係を結ぶものとなっていたわけです。
 あるいは土谷は、この時は、生命の棲家を作る役割を、引き受けようとしたのだろうか、と想像されました。
 物と対話し、いわば関係を持つことに創作の本質を見出した作家とすれば、生命は己が手によって作られるものではなく、こちらがどう気づき、どう関係を結ぶかであると、そんな風に志向が絞られていったとしても不思議はないでしょう。
 土谷はとうとう「関係」そのものを作品化するということで、彼にとっての最終ステージに入ったのかもしれません。
 安井曽太郎を紹介させていただいた際には「名人芸」と形容しましたが、土谷武もまた、自分の目指す地平にたどり着いた作家であるように、私には思えました。
 両者に共通するのは、境地とも言うべきものであるかもしれません。個々の作品の出来不出来を超えて、呼吸が楽しめるんですね。四回転ジャンプに成功したとか、最初から最後までミスがなかったというようなことではなくて、一挙手に味わいが出てくるようなところがあるんです。
 土谷の場合、「型」がないだけに「名人芸」とは違いますが、「型」によらない分、感じは、耳を澄ませばより純粋に伝わってくるとも言えるでしょう。
 今回の回顧展は、この作家のたどった道程をなぞり直し、たどり着いた境地を味わうのにまたとない機会であるように思います。(敬称略)

(ちなみに、近頃の私は、自分の目指す地平にたどり着いたかのような作家の、幸運ではなく、意志に心がひかれるようです。)


 会場を二周りしようかという時に、向こうのほうに現れた観客の声が耳に入りました(他に人気が無いのでよく聞こえる)。

「よくわらないけど、この人、たぶん孤独な人なんだろうね。一人でサ、・・・・・・」。

 最後の言葉が聞き取れなかったのですが、コメント全体としては否定ではなく、そういう人なんだろうという、理解を示すニュアンスだったんですが、その「一人でサ、孤独」という言葉に、いささかハッとさせられました。
 空地で一人遊んでいる子供を見かければ、人によっては、「孤独」と形容されるのかもしれません。その子供が内心楽しんでいるかどうかといったこととは別の話ですね。
 ですから、一人で散歩するなんて気が知れないという方にとっては、この展覧会は馴染みにくいものであるかもしれません。好みを超えた地力の大きさはあるとは思いますが、強いては勧められません。
 たまにでも散歩することがあって、そんな時間が結構好きだというような方に、特にお勧めしたいと思います。
(本当は誰彼となく、かなり強く勧めたいと思っていますが)

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