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いわやん(京都)
今回の展覧会で一番強く感じたのは、蒐集家の好みということでした。
帰宅してから図録を見ますと、主催者の「ごあいさつ」に、「作品の収集に当たって、サー・パーシヴァルは、西洋人の趣味ではなく、周到な文献研究によって得た中国の古典の知識や鑑定家の視点を尊重し、中国の趣味、なかでも18世紀の宮廷における趣味を反映させました。」とありますが、なるほど、そういうことだったのかと、抱いた戸惑い(感激の)に対する大きな手がかりを得た思いがしました。
これまで日本で多少の陶磁器を見てきましたが、青花や色絵のものがこれほど美しいと思ったことは、ちょっと記憶にありません。それほどこのコレクションには特別の特徴があったわけですが、それは言い換えれば、日本にその種の陶磁器があまり来ていなかったからだということで、つまり、蒐集する視点によってね、一口に中国陶磁といっても、それほどの開きがでてくる。
自分自身の経験をふりかえってみましても、幾つかの窯、美術館、博物館などを訪ね歩いてきましたが、そんな中で私に響いてきたものは、備前の窯変であったり、土味の素朴な伊賀であったり、釉の流れに味のある立杭であったり、上品でありながら華美ではない黄瀬戸であったりしたわけです。あるいは、高麗青磁、李朝の白磁、北宋のもろもろに惹き込まれたりしましたが、絵付けされたもので美しいと感じたのは、そう、柿右衛門の幾点かくらいでした。柿右衛門は例外として、陶器は、無地がいいなどと思い込んでいたわけです。
ところが、今回のディヴィッド・コレクションの、白磁に装飾が施されたもの数点は、そんなこれまでの私の観念(偏見)を見事に吹き飛ばしてくれました。
そこでは装飾が全然、余計ではないのです。否、装飾が装飾として美しく、同時にまた白磁の魅力も強く引き出していて、その協奏がほんとうにうっとりするくらい美しい。
西洋の陶磁器のルーツの大きな一つに中国陶磁があるということ、西洋人によって競って買い求められた時代があったということは知識としては知っていましたが、今回はじめてそのときの西洋人の気持ちが実感されました。
思えば、素朴な味わいの対極には、やはり別の極みがあって当然です。「皇帝の磁器」について、私は語るべき知識をまったく持ちあわせていませんが、それは間違いなく、その一つだと思います。ぜひ。
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