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いわやん(京都)
ワシントン・ナショナルー・ギャラリーとは、印象派の美術館なのか。世界の名画の中心は、やはり印象はなのかと、錯覚させられるような、印象派に偏った展覧会でした。個人的には印象派ファンなのですが、ここまでくると、疑問を感じざるを得ません。
そんなわだかまりを見事に吹き飛ばしてくれたのが、会場、最後のパートに展示されていたフェルメールでした。
フェルメールについて
私は、実物を見るのは今回がはじめてだったのですが、ひとめ見て、絶句。帰り際に、もう一度、見直して鳥肌・・・。なごり惜しさから、もう一度、見ることにして、こみあげてくるもので胸がいっぱいになりました。
もうほとんど生きていて良かったというような思いでした。この日、この瞬間に、この状態で作品に出会うことが出来て良かったと、これまでの特にここ数年の、不本意な状況(己の行動)の連続もすべて、この一点と引き換えのものなら、しかたがないと、そんなことを思ったくらいに、実に良かったのです。
現存するすべてのフェルメールを見るために各国を旅行する人がいるとか・・・話には聞いていましたが、さもありなんです。
フェルメールの作品について語られる場合、ライティングの巧みさが取り上げられることが多いようです。しかし、フェルメールにおけるそれは、通常いわれるところのそれではありません。
ライティングとは元来、劇的な効果を演出するために考案されたもので、ライティングといえば平板な印象になることを避けるための工夫である場合が普通であったように思いますが、フェルーメールにおけるライティングとは、その点、まったく対照的なほどに異なるのですね。
この作品(『手紙を書く女性』)における光は、日常の何気なさを浮かび上がらせるために使われているのです。ドラマチックな場面をつくって、物語や人の内面を浮かび上がらせるということではなくて、何気ない日常、人間の平静を照らすために光が使われているのですね。こんなライティングは他に思い当たりません。
光があたってる人物の存在感がむしろ希薄なんですよ。絵の中の女性は、微笑んでいます。しかし、実体は希薄なのです。
この絵に描かれている女性は過去の幻影か追憶なのか。あるいは、余命いくばくもない、生命の火が消えかけた人物なのか・・・そんなふうにも見えるくらいはかなく描かれているのですが、そう見てしまうのは、ドラマチックな演出手法に馴らされているが故の錯覚というもので、たぶんそうではない。ありふれた日常の、何事もない平常のおだやかな心、空気といったものが、実はどれだけはかないものであるのかということを、フェルメールは描きたかったと思うのです。
人は、何も特別な状況下でのみ本性があらわれるというものではなく、平常の平静の状態で現れる本性もあるのだ・・・そして、そこにも神秘があり、魅力があり、わたしはそれを愛する・・・フェルメールのそんなつぶやきが聞こえてきそうでした。
今回の展覧会には名作が幾つか展示されていますが、とくにフェルメールは必見です。
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