No.111 Last Up Date 2000,315


2000,2,22〜3,20

絵画を突き動かすもの

京都国立近代美術館

111

  URL
 月曜日。但し、3月20日開館 休館日
 一般¥830/高大生¥450 料金

guide 作品 図録 雰囲気 ・・感想・・

 展覧会のスケッチ

 



guide 作品 図録 会場風景 感想
 

 絵画を突き動かすもの

 わたしたちはいつも実に多くの顔に取り囲まれていますし、自分自身ひとつの顔でもあるわけです。自分で自分の顔は見ることが出来ないのに、顔には内面のどんな微妙なニュアンスもことごとく表出されてしまいます。
 顔はこのうえなく親しげで、有用な具体的な存在でありながら、一方では、そのあまりの明瞭さのゆえにでしょうか。ふと気づけば底知れない不気味さを湛えて迫ってくるものでもあります。わたしたちは顔から逃れることができないのです。
 絵画もまた顔と深く関わってきました。伝統的な肖像画の機能が写真に譲り渡された近代以降にあっても、その関係は解消することなくむしろ強まり、20世紀、絵画と顔とは、それぞれに固有の生態を直にぶつけあい、融合離反を繰り返しながら互いに高めあってきたといえるでしょう。
 顔と同様に絵画は、見られるものでありながらまた自ら主体的なまなざしをもってわたしたちを見返してきます。直接には顔を描いていない絵を前にしてすら、時にひとは『見られている』と感じるでしょう。正面から向かい合うという、ひとと絵画の関係の基本は、そのまま顔のあり方に通じるものです。また、絵具を何層にも塗り重ねる油彩画の方法は、生の諸相が塗り込められた含蓄ある顔を思わせます。顔と絵画の関係は複雑で根が深いのです。
 この展覧会は今世紀初頭のピカソ、マティス、クレーらに始まり、第二次大戦後のベーコンやデュビュッフェを経て、バゼリッツ、クレメンテといった現代の代表的画家、さらには近年著しく台頭してきたアジアの若い画家たちにいたる40数名の100点あまりの作品を展示し、顔という切り口から20世紀美術のダイナミクスに迫ろうとするものです。単なる名画鑑賞という安全な領域を越えて、これらの作品があなたの何かを揺さぶることを期待しています。
」(同展チラシより)

このページのトップに戻る・・・

guide 作品 図録 会場風景 感想
 

出品作家

パブロ・ピカソ
パウル・クレー
アメデオ・モディリアーニ
ジャン・デュビュッフェ
ウィレム・デ・クーニング
フランチェスコ・クレメンテ
ファン・リジュン
青木繁
靉光

このページのトップに戻る・・・

guide 作品 図録 会場風景 感想
 
 

このページのトップに戻る・・・

guide 作品 図録 会場風景 感想
 
訪れたのは、会期終了間近の3月14日の夕方。
「印象派」だとか外国の美術館名や有名海外作家の名前を前面に出さない企画展とあって、さほど多くの入場者がいるとは予想していませんでしたが、実際には意外に盛況で、6分入りといったところ。
層としては、若い人中心で、全体の八割がたはそうだったかな。中高年の婦人グループや定年後の男性の姿がほとんどみかけられなかったのは、注目されるところ。広報(宣伝)の方法に問題ありと言えるかもしれません。
もっとも、百貨店の展覧会に、中高年の婦人グループや定年後の男性の姿が多いのは、招待券が大量に出回っている加減もあるので、純粋な展覧会ファンとしてはいくらか割り引いて考えなければいけないのかもしれませんが。

このページのトップに戻る・・・

guide 作品 図録 会場風景 感想
 

ご感想などお寄せください。

いわやん(京都)
 私にとって今回の展覧会は、名画、画家の再確認といった趣のものになりました。企画のコンセプト(顔)はほとんど意識されず、むしろ意識されたのは、美術史ですね。美術史や美術入門書などの書籍で見聞きしてきた作家、作品を一堂に目にして、あらためて、歴史に残った作家、作品の力強さが確認されたわけです。
 歴史にうもれた作家、作品の中にも無論、すぐれたものはあるでしょうが、残ったものの粒ぞろいというのはありますね。
 今冬の日展(京都展)で、ほとんどの観客が作品一点につき数秒程度しか足をとめないという現実を見たわけですが、今回の展覧会では、たとえば、それが少なくとも数十秒という単位になってましたから、そのあたり一つ観客の素朴な反応を見て取ることが出来ました。
 個々の作品で目にとまったのは、一番はじめに展示されていた中村彝の『エロシェンコ氏の肖像』。あの壮絶な競作のエピソードのある作品ですが、実際に目の当たりにすると意外にも抑制が効いていて、むしろ、効きすぎているくらいで、そのあたりにかえって作家の作品に対する真剣さ、カタチにまとめあげることへの慎重さが感じられました。・・・若い時期の、ある意味では無邪気な逸脱とは違った、胸をあつくさせるものがありました。
 ピカソも今回は、印象的な作品がありました。『ドラ・マールの肖像』ですが、そこでは紛れもなく<美>が追求されていると感じられました。ピカソには、崩すというイメージが強かったのですが、その作品は懸命に美しいものが探られている感じがあっのです。また、その隣に展示されていた青の時代の作品、『青い肩掛けの女』の控えめさ、私にとってピカソの見直しの時期がやってきているようです。・・・そういえば、先日、河井寛次郎を見て、オリジナルにたどり着くまで民藝や棟方志功という見本を必要としたそのプロセスを知って、あるいは、ピカソもそうだったかもしれないなどと思ったわけですが、ピカソという人は、ものすごいエネルギーと自己というものと裏腹に、創作においてとてもナイーヴな一面を持っていた作家だったのかもしれません。数多くのスタイルの変遷を辿ったのは、それだけ、自分のあからさまな表出に時間がかかったということであったのかもしれません。
 藤田嗣治について、今回は何かすっとラクに見れるという感じがありました。波長があったのかもしれません。で、その結果、藤田の<白>に加えて、線が目にとまりました。気が付けば、当たり前のことですが、藤田の画の特徴の一つは細い線の描写です。考えてみれば、そのような線の使い方は油絵では他にちょっと思い浮かびません。・・・思えば、日本画のほうが現代において油絵のごとくに塗り主体になって、線が焼失していったのと、まったく逆であるわけです。藤田は、油絵に繊細な線描を持ち込んだわけですから。正確な事実関係は知りませんが、あの<白>は、油絵に線を持ち込むために工夫されたものであったかもしれません。藤田がパリで道化を演じていたことは有名ですが、今回展示されていた自画像では、あきらかに醒めた視線が描かれています。もし、それを当時も隠していなかったのだとすれば、その道化は単なる卑屈な道化とは違う、むしろ挑発的な道化であったとも考えられ、・・・興味が増しました。
 そして、ファン・リジュン。今回、一番新鮮に感じられたのは彼の作品であったかもしれません。雑誌などで見かけたときには、キワモノ的な感じを受けたのですが、実際目の当たりにすると、奇をてらっているというような、そういう弱さは少しも感じられませんでした。むしろ、大家の有名作品の連合軍に対して一人で相対しているかのような、超然とした意識、それを裏付ける力を感じました。おそるべし、という感じです。

このページのトップに戻る・・・



 

展覧会のスケッチ

Kazuhiro Iwatsuki all rights reserved.
No reproduction or republication 
without written permission.
転載、再発行はご遠慮下さい。

mail : artclip@m3.dion.ne.jp

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送