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「ルオーの版画
『ユビュおやじの再生』
ジョルジュ・ルオー(1871-1958)は、木工職人の子としてパリに生まれる。ステンドグラス職人の徒弟をつづけながら、装飾美術学校、次いでエコール・デ・ボザールのギャスターヴ・モロー教室に学んだ。
1903年頃からピエロ、娼婦、場末の庶民、裁判官、風景などの主題を青の色調と荒々しいストロークで描く。
中期からの宗教的画風は最後までルオー芸術の主軸をなし、ルオーは自然をも自己の内面から湧き上がる精神性をもって表現。また人間や生活を冷静に凝視し、厳しい創造の世界を築いた。
さて、本展の版画作品『ユビュおやじの再生』は、1896年にパリのラ・メゾン・ド・レゥーヴル劇場で初演されたアルフレッド・ジャリ(1873-1907)の戯曲<ユビュ王>に由来する。
ジャリの生んだ『ユビュ』は、破天荒な怪物でありながら、同時に特定できないタダノヒトでもあるという不思議な存在である。王を殺し、裁判官を殺し、金のために無差別に人を殺す、かと思うとわが身を守るためにいくらでも臆病でも卑劣にもなれる。<ユビュ王>はどこにもない場所で、どのように演出することも、どのように読み取ることも自由な限定されない戯曲である。
そのためにさまざまな演出で、つねに新しい戯曲としていまも上演され続けている。
画商のアンブロワーズ・ヴォラール(1867-1939)もこの怪物に魅せられ、ユビュを政治家たちの悪徳の象徴としてとらえて、政界のカリカチュア『ユビュおやじの再生』を書き、ルオーに挿絵を依頼した。
ヴォラールの文章は文学的に特に秀れたものではなかったが、ルオーはそれを逆手にとって、6年の年月をかけて32点の銅版画と104点の木版画で、独自のユビュの世界を創りあげた。
その世界はルオーの他の作品にみられるような自己の内面から湧き出る精神性をもった表現となっている。
そのルオーの『ユビュおやじの再生』の挿絵から銅版画32点、木版画50点を陳列する。ルオーの重厚な版画によって創出されたユビュの世界をじっくりと鑑賞していただきたい。」(同展チラシより)
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訪れたのは、5月14日、日曜日の午後。
伊丹市立美術館ははじめてだったので、展覧会だけでなく美術館を見るのも楽しみだったが、
来客数はまばら。ルオー展の会場には一時間弱ほどいたが、その間の入場者数は、10名ほど。若いカップルが一組と年配の夫婦連れが三組、そして単独の年配の男性、それだけ。ちょっと寂しすぎる集客力といえよう。
おかげで、こちらは借り切り気分でゆっくり堪能できたが。
雰囲気としては、単独の男性と若いカップルの女性のほうは、比較的熱心に見入っていた様子だったが、他は、今ひとつといった感じ。早々に退出していった。
年配の方にとっては、併設されている柿衞文庫の俳画のほうが目当てだったかもしれない。 |
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ご感想などお寄せください。
いわやん(京都)
現在、伊丹市で開催中のルオーの版画、「ユビュおやじの再生展」について、私の感想で、ご紹介させていただきます。
京都からすると、伊丹は少し遠く、またついでに他を回るということもやりにくいので、ついつい見送るケースが多いのですが、今回は、チラシにあった絵(版画)がどうも気になって、出かけてきました。結果は、アタリ!
ルオーについては、ルオーだけの展覧会こそ見ていないものの、油彩も版画も、いくつも見てきたのですが、今回のモノクロ作品は、これまでになく惹かれるものがありました。
どこにそんなに惹かれたのか・・・
途中、ふと思い浮かんだのは、河井寛次郎でした。河井寛次郎がもう少し長生きして、絵付けをせずに土の造形だけで作品を作っていたなら、こんな風なものになっていたかもしれないなと。そんな思いがよぎったのです。ルオーのモノトーンの版画には、キメの粗い陶器の土肌に似た感触がありました。
後年の河井寛次郎には、棟方志功との出会いが大きかったわけですが、同じ版画であるにもかかわらず棟方のことは不思議と連想されませんでした。
棟方の作風の奔放さととルオーのマイペースの屈託のなさは、ちょっと考えると、近いものがありそうなんですが、作品を前にしての印象はかなり違うんですね。
棟方の作風は、たとえていえば蔓草のようなもので、ものすごい繁殖力をもっているんですが、葉っぱ的。しっかりした作品でも、岩の表面のような感じです。一方、ルオーの場合は、植物にたとえれば、根菜、芋のようなんです。繁殖力という点では棟方ほどではないにしろ、生命力は豊かなんですが、バァーと広がっていくというか、一面を覆い尽くそうとするような感じはなくて、隙間、隙間にコツコツと自分の居場所を増やしていくという感じなんですね。とはいっても窮屈な感じはなくて、屈託がない。むしろ、コンプレックスのようなものを感じるのは、棟方のほうです。
棟方の作品は笑っている感じのものが多いですが、棟方自身の創作態度はというと、こらえているとか、ものすごく頑張っているというような、強くアピールしたいという、そんな姿が目に浮かびます。
対してルオーの場合は、作品を見れば、むしろ無表情であったり、虚ろな表情であったりというものが多く、決して陽気が中心ではありませんが、陰気とかやりきれないというものではなくて、あたたかい。愚かな者もズル賢い者もすべてがやさしく包みこまれているような感じなのです。
ルオー・ワールドの中では、愛らしい笑顔を浮かべずとも、元気はつらつとしていなくても、許容されている。排除されない。だから、穴倉のような場所であっても、押し潰されるような不安感などまったくなく、そこにいられる感じがするのでしょう。そのままの姿でそこにいていい。少なくとも存在する自由が与えられている、そういう何か安らぎのようなものがあるんですね。いい展覧会でした。
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