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いわやん(2000,7,14)
この会場の展覧会は、これまで正規の料金で入場していましたが、今回は、前売り券の購入に挑戦してみました。販売しているのは、JR系の旅行代理店<Tis>です。<Tis>の店内にはいっても、展覧会のポスターが貼ってあるわけでもありませんでしたが、尋ねてみると、難なく購入することが出来ました。そうです。会期中でも前売り券は手に入るのです。ほんの少しの回り道で、大人の場合、200円節約できます。ご存知ない方は、ぜひご利用ください。
あ、それともう一つ、今回の展覧会では、大半の作品のサイズが小さいので(ハガキサイズ以下のものが全体の三分の二以上ではなかったかと思います)、視力に相当の自信のある方でない限りは、ルーペの持参をお勧めします。
さて、展覧会の内容についてですが、レンブラントの目というのか感性というのは、カメラみたいだなと思いました。絵心のある人でも、たいていの場合は、顔とか人とか、テーブルとか皿とか、一つ一つのものを認識して描いてゆくものだと思いますが、レンブラントの版画は、そういう個々のものを描くという感じがひじょうに希薄で、あるシーンがまったく陰影に還元されて写しとられているのですね。人やら物やらを描いてそこに陰影をつけていくというのではなくて、まさに写真と同じように、光の明暗だけが記録されるような感じなのです。顔半分にしか光があたっていない場合は、残りの半分はほとんど黒く覆われていますし、時には闇と一体化している。
明暗があったほうが絵らしくなるということは、多少描き慣れてくると誰もが気付くことですが、レンブラントの場合、そんなことははじめから当然のことであったようです。彼にとって絵というものは、陰影あってこそのものなのでしょう。
今回、展示されていた版画作品はサイズが小さかったばかりでなく、仕上げもラフな、スケッチ程度のものも多かったのですが、そのラフなスケッチっぽいものを見ても、陰影が描かれている。マンガの下書きのような、人体の輪郭が描かれているわけではないのです。
役者や大道具。小道具を配置して、そこにライティングしてゆくというのではなくて、ライティングまで決まった状態で、絵筆をとっているかのようです。
モーツァルトの作曲は、すでに頭の中で出来上がっている曲をただ譜面に書き写すだけのようだったとか、そんな話を訊いた覚えがありますが、レンブラントの場合もそれに近いものがあったのでしょうか。まさに天才のなせる技です。
こういうと、絵の技能の話かと思われるかもしれませんが、今回、考えさせられたのは、そういう描き方を選んだ作家の思い・・・、つまり、レンブラントは何を描こうとしていたのかということです。
たとえ話をさせてください。
アイドルの写真。ポートレートの基本のように、正面から笑顔をほのかな陰影で撮影したものと、全体の三分の二くらいが影のような、そういうドラマチックなものと、どちらが好まれるでしょうか?
答えは、人によりますね。ファンの多くはたぶん前者を好むでしょうが、後者の手法が成功していれば、美術作品として、そのアイドルのファン以外にも広くアピールするでしょう。何を求めるかによる。
そうです。ということは、深い陰影や複雑な陰影の中で描くことを好むこの作家は、描かれている人物なり風景を描くという気はあまりなかったということですね。それよりも、自分のセンスを前面に押し出す気持ちがあったのかもしれないし、あるいは、その人物というよりも、その人物のその一瞬を描くことに関心があったのでしょう。イエス・キリストの素顔がどうかなんて、そんなことに興味はない。イエス・キリストのこの時の場面をおれはこういう風にイメージするんだという、そこに創作の動機があったようです。
とすると、注文主の好むような絵を描かなくなっていったというエピソードもわかる気がします。イエス・キリストでさえ、そんなふうにしか扱わなかったわけですから、富裕な商人というだけの人物にどういう意欲が喚起させられるというのか。強いて描こうとすれば、つまらないことに頭を悩ませている小心で愚かな者の憂鬱な顔、虚ろな顔、虚栄心に満ちた顔、等々となってしまう。
しかし、それではちょっと寂し過ぎますよね。
どんなに愚かな親父でも、孫の前では実に幸せそうないい表情になるとか、人間にはそういう面もあるわけで、そういう面に着目しても、それは偽りにはならないだろうとも思うわけです。でも、レンブラントはそういうスタンスをとらなかった。なぜか、そのことを考えると、レンブラントは自分自身に余裕がなかったのではないかと思い当たります。
私生活に苦難が多かったのかもしれませんが、そういう視点で彼の作品をあらためて振り返ると、そういう間接的な要因だけではなく、創作活動そのものに憂鬱になることがあったのではないかという気がします。
たとえば、自分の卓越した技量を存分に生かすだけの、題材を見つけることが出来なかったのではないかといか。能力には最高に恵まれたが、その腕を限界まで引き出すだけのテーマには恵まれなかったのかもしれません。あるいは・・・
最近、レオナルド・ダ・ビンチのことに興味を持つことがあって、少し考えていたのですが、たとえば彼にしても、ミケランジェロにしても、思想というのかメッセージというのか、ものずこい意味を作品に盛り込んでいるのですね。日本でいえば、万葉集の歌のように、隠された意味がある。いや、意味を隠して伝えるために作品を作ったような感じです。単なる造形上の美を追求しているわけではなかったわけです。
ところが、レンブラントには、そういう部分がなかったように思えるのです。熱心なキリスト教徒とも思えませんが、教会批判だとか、あるいは異教を信奉していたとか、そういうところはレンブラントには感じられません。おそらく、正味、絵画を追求していたのではないででしょうか。
ところが、そうしたときに、意外にも、宗教上の制約が大きかったはずの古典になかなか勝てない。否、追いつけないところがあるということに気付いて、愕然としたのではないか。技術でははるかに勝っており、かつ、真実を描くという姿勢でもひけをとらない自分の絵がどうして、古典の名作を凌駕することが出来ないのか、そこに大きなジレンマを感じて、それが生涯にわたって、憂鬱な思いとして彼につきまとったのではないかと。そんなことが想像されたのです。
レオナルドやミケランジェロの場合は、美術品に限らず、世界そのものがどういうものであり、どうあるべきかというイメージがあり、その世界観の中での個々の創作活動であったけれども、レンブラントには、そういう世界観が欠落していたのではなかったか。あるいは、新興国オランダという環境が、空想的な世界観を夢想することを阻害したのかもしれないし、あるいは、レンブラントには、政治や宗教上の中枢にいる人物や偉大な改革者との交際がなかったのかもしれません、それとも、絵のことしか考えられない職人気質だったのか・・・。
レンブラントが求めていた光というのは、実は、この世界がどういうものなのかということを照らし出す<知>の光だったかもしれないし、彼の作品で支配的な影は、彼自身が自分に欠落しているものを絶えず意識していたという、そのあらわれであったかもしれません。
今回は、レンブラントに、そんな風な思いを持ちました。
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