No.149 Last Up Date 2000,6,29

銅版に刻まれた光と影

レンブラント版画展

美術館「えき」KYOTO

会期 2000,7,05-7,24
休館 会期中無休
料金 一般 800 学生600

 



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レンブラント版画展
銅版に刻まれた光と影

 オランダ美術を代表する巨匠レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)は、油彩画のみならず、その天分を存分に発揮した数多くの版画を制作し、画家であると同時に優れた版画家としても名声を博しました。その生涯に手がけた銅版画は約300点にものぼるといわれています。
 彼の関心は、自画像や聖書のエピソードはもとより、オランダの風景や日常生活の一場面など彼を取り巻く社会に幅広く向けられており、繊細で柔らかな線と、大胆な光と影のコントラストによって、それまでにない独自の版画芸術の世界を確立しました。
 人間描写に優れた作品の数々は、遠くルネサンスの精神を受け継ぐとともに、スペインから独立して間もない17世紀オランダの、自由な市民社会の息吹を今日の私たちに伝えてくれるものです。
 本展は、レンブラントの生まれ故郷にあるライデン大学やハールレム市のテイラー美術館が所蔵するライフ・タイム・プリント(作家の生前に刷られた作品)を中心に、150余点の代表作を一堂に展覧するものであり、日蘭交流400周年を記念するにふさわしい展覧会です。」(同展チラシより)

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出品作品

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訪れたのは、7月13日の夕方。
版画とはいえ、やはり<レンブラント>の名前が掲げられている以上、混雑することもあるかもしれないと思い、平日を選んだ(この前のフェルメールで懲りたし)。

さて、入場してみると、観客数は6,7分入りといったところ。この会場で行われてきた他の展覧会に比べれば、やはり多い。この分なら、土日などには、おそらく満員になるのだろう。
観客の層としては、中高年層が約半数だが、この会場の特性として、若いカップル、女性が多い。中高年の婦人グループがその分、少ないわけだが、これはまだ中高年の婦人グループの訪問先としての認知度が低いということだろうか。あるいは、他の百貨店などに比べて、この層に招待券が出回っていないためか・・・

雰囲気としては、一点一点足をとめてきちんと見ていく人がほとんどだったが、感激、感動といった様子は、ほとんど見かけることがなかった。
モノクロの版画であるということもさることながら、多くの作品のサイズがあまりに小さく、肉眼ではちょっとわかりづらかったせいではないかと思われる。
ちなみに私は、スコープを持参していったが、すべての作品を全部スコープで見回すというのも、目が疲れる話で、こういう場合には、大きなサイズのルーペのほうが良いだろう。

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ご感想などお寄せください。

いわやん(2000,7,14)
この会場の展覧会は、これまで正規の料金で入場していましたが、今回は、前売り券の購入に挑戦してみました。販売しているのは、JR系の旅行代理店<Tis>です。<Tis>の店内にはいっても、展覧会のポスターが貼ってあるわけでもありませんでしたが、尋ねてみると、難なく購入することが出来ました。そうです。会期中でも前売り券は手に入るのです。ほんの少しの回り道で、大人の場合、200円節約できます。ご存知ない方は、ぜひご利用ください。

あ、それともう一つ、今回の展覧会では、大半の作品のサイズが小さいので(ハガキサイズ以下のものが全体の三分の二以上ではなかったかと思います)、視力に相当の自信のある方でない限りは、ルーペの持参をお勧めします。

さて、展覧会の内容についてですが、レンブラントの目というのか感性というのは、カメラみたいだなと思いました。絵心のある人でも、たいていの場合は、顔とか人とか、テーブルとか皿とか、一つ一つのものを認識して描いてゆくものだと思いますが、レンブラントの版画は、そういう個々のものを描くという感じがひじょうに希薄で、あるシーンがまったく陰影に還元されて写しとられているのですね。人やら物やらを描いてそこに陰影をつけていくというのではなくて、まさに写真と同じように、光の明暗だけが記録されるような感じなのです。顔半分にしか光があたっていない場合は、残りの半分はほとんど黒く覆われていますし、時には闇と一体化している。
明暗があったほうが絵らしくなるということは、多少描き慣れてくると誰もが気付くことですが、レンブラントの場合、そんなことははじめから当然のことであったようです。彼にとって絵というものは、陰影あってこそのものなのでしょう。
今回、展示されていた版画作品はサイズが小さかったばかりでなく、仕上げもラフな、スケッチ程度のものも多かったのですが、そのラフなスケッチっぽいものを見ても、陰影が描かれている。マンガの下書きのような、人体の輪郭が描かれているわけではないのです。
役者や大道具。小道具を配置して、そこにライティングしてゆくというのではなくて、ライティングまで決まった状態で、絵筆をとっているかのようです。
モーツァルトの作曲は、すでに頭の中で出来上がっている曲をただ譜面に書き写すだけのようだったとか、そんな話を訊いた覚えがありますが、レンブラントの場合もそれに近いものがあったのでしょうか。まさに天才のなせる技です。
こういうと、絵の技能の話かと思われるかもしれませんが、今回、考えさせられたのは、そういう描き方を選んだ作家の思い・・・、つまり、レンブラントは何を描こうとしていたのかということです。
たとえ話をさせてください。
アイドルの写真。ポートレートの基本のように、正面から笑顔をほのかな陰影で撮影したものと、全体の三分の二くらいが影のような、そういうドラマチックなものと、どちらが好まれるでしょうか?
答えは、人によりますね。ファンの多くはたぶん前者を好むでしょうが、後者の手法が成功していれば、美術作品として、そのアイドルのファン以外にも広くアピールするでしょう。何を求めるかによる。
そうです。ということは、深い陰影や複雑な陰影の中で描くことを好むこの作家は、描かれている人物なり風景を描くという気はあまりなかったということですね。それよりも、自分のセンスを前面に押し出す気持ちがあったのかもしれないし、あるいは、その人物というよりも、その人物のその一瞬を描くことに関心があったのでしょう。イエス・キリストの素顔がどうかなんて、そんなことに興味はない。イエス・キリストのこの時の場面をおれはこういう風にイメージするんだという、そこに創作の動機があったようです。
とすると、注文主の好むような絵を描かなくなっていったというエピソードもわかる気がします。イエス・キリストでさえ、そんなふうにしか扱わなかったわけですから、富裕な商人というだけの人物にどういう意欲が喚起させられるというのか。強いて描こうとすれば、つまらないことに頭を悩ませている小心で愚かな者の憂鬱な顔、虚ろな顔、虚栄心に満ちた顔、等々となってしまう。
しかし、それではちょっと寂し過ぎますよね。
どんなに愚かな親父でも、孫の前では実に幸せそうないい表情になるとか、人間にはそういう面もあるわけで、そういう面に着目しても、それは偽りにはならないだろうとも思うわけです。でも、レンブラントはそういうスタンスをとらなかった。なぜか、そのことを考えると、レンブラントは自分自身に余裕がなかったのではないかと思い当たります。
私生活に苦難が多かったのかもしれませんが、そういう視点で彼の作品をあらためて振り返ると、そういう間接的な要因だけではなく、創作活動そのものに憂鬱になることがあったのではないかという気がします。
たとえば、自分の卓越した技量を存分に生かすだけの、題材を見つけることが出来なかったのではないかといか。能力には最高に恵まれたが、その腕を限界まで引き出すだけのテーマには恵まれなかったのかもしれません。あるいは・・・
最近、レオナルド・ダ・ビンチのことに興味を持つことがあって、少し考えていたのですが、たとえば彼にしても、ミケランジェロにしても、思想というのかメッセージというのか、ものずこい意味を作品に盛り込んでいるのですね。日本でいえば、万葉集の歌のように、隠された意味がある。いや、意味を隠して伝えるために作品を作ったような感じです。単なる造形上の美を追求しているわけではなかったわけです。
ところが、レンブラントには、そういう部分がなかったように思えるのです。熱心なキリスト教徒とも思えませんが、教会批判だとか、あるいは異教を信奉していたとか、そういうところはレンブラントには感じられません。おそらく、正味、絵画を追求していたのではないででしょうか。
ところが、そうしたときに、意外にも、宗教上の制約が大きかったはずの古典になかなか勝てない。否、追いつけないところがあるということに気付いて、愕然としたのではないか。技術でははるかに勝っており、かつ、真実を描くという姿勢でもひけをとらない自分の絵がどうして、古典の名作を凌駕することが出来ないのか、そこに大きなジレンマを感じて、それが生涯にわたって、憂鬱な思いとして彼につきまとったのではないかと。そんなことが想像されたのです。
レオナルドやミケランジェロの場合は、美術品に限らず、世界そのものがどういうものであり、どうあるべきかというイメージがあり、その世界観の中での個々の創作活動であったけれども、レンブラントには、そういう世界観が欠落していたのではなかったか。あるいは、新興国オランダという環境が、空想的な世界観を夢想することを阻害したのかもしれないし、あるいは、レンブラントには、政治や宗教上の中枢にいる人物や偉大な改革者との交際がなかったのかもしれません、それとも、絵のことしか考えられない職人気質だったのか・・・。
レンブラントが求めていた光というのは、実は、この世界がどういうものなのかということを照らし出す<知>の光だったかもしれないし、彼の作品で支配的な影は、彼自身が自分に欠落しているものを絶えず意識していたという、そのあらわれであったかもしれません。

今回は、レンブラントに、そんな風な思いを持ちました。

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展覧会のスケッチ

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