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いわやん(2000,8,16)
今回の展覧会では、表面的には、
<何をしていいのかわからない>
<何もすることがない>
<僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか>
という字句が敷き詰められており、一見するとそれがメッセージであるかのようですが、その文字のおびただしい量に比べて、説得力に欠ける気がしたのですね。
会場を何回も巡って、何か感じ損ねていないかと確認してみましたが、やはりそれらの字句からは説得力がほとんど感じられないのです。一瞬、芸術家を気取っているだけの展覧会かとも疑ってしまったくらいです。あのあいさつ文がなければ、本当にそう結論づけてしまったかもしれません。あのあいさつ文によって、眼を覚まされたようなものです。
あいさつ文というのは、会場にあった作者の日記風の言葉です。ふだん私はあまりパネルを読んだりはしないほうで、読む場合も会場を一巡した後なのですが、今回も、一巡、二巡して、半ばがっかりした気分で最後にそれを読んでみることにしたわけですが、その文章がとてもよかったのです。
今回の展覧会ではじめて、いいなと思ったのは、そのあいさつ文でした。自然体で素直で、それでいて作者のこだわりがよくうかがわれるものでした。
それを読んでどういう思いを抱いたかというと・・・、
人は、たくさんいます。現在の世界の人口は60億でしたっけ。人間はたくさんいるわけです。そして、たぶん、それぞれがかけがえのない生命の感性を持っています。そこには優劣もないでしょう。が、しかし、他者に理解できるように、自分のその生命の感性を表現できる人がどれくらいいるかというと、話は別です。
自分の生命の感性を多くの人が理解できるように表現できる人・・・それをアーティストと呼ぶなら、そんなアーティストは、たとえば、日本でどのくいるのか。千人か、一万人か。仮に一万人として、一億二千万のうちのわずか一万人です。
あいさつ文を見て、福岡道雄さんは、そんな一人に違いないと思えたのです。そして、そういう役割を果たす人は世の中に確かに必要だなと、そんなふうに納得させられる、強い何かがそこにあったのです。
福岡さんは、魂を救済する宗教家でもなければ、痛みを取り除く医者でもなく、<何をしていいのかわからない>とか<何もすることがない>などと公言している(もちろん、真意は文字通りではないにせよ)、どちらかというとダラしないとか、キラクな奴だとかと、眉をひそめられてもおかしくないような人なのですが、福岡さんは自分の生命の感性を表現することができる人なんですね。その一点において、選ばれた人なのです・・・
ということは、そうです。つまり、今回の、説得力の希薄な作品展示は、わざとそうしているんじゃないかと考えたほうがよいということになります。
そこには隠された意図があるのではないかと、その文章によって気づかされたわけです。、
おそらく、<何をしていいのかわからない>、<何もすることがない>、<僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか>などの字句は、たぶんメッセージではないのです。それらの字句は、万葉集のいくつかの歌のようなもので、メッセージを隠すための字句でしかない。
もっとも、万葉集の場合は、おおらかな叙情的なことを歌って、その奥に、不穏当な本音を忍ばせたりしたわけですが、福岡さんの場合は、不穏当な字句がカムフラージュに使われているわけで、そこが大きく異なります。暗喩というのか隠喩というのか、それを逆説的に使っているわけですね。
つまり、読み取るべき内容は、その不穏当な字句によってカムフラージュされている、あるいは、カムフラージュされなければいけないようなメッセージということになります。それは一体何なのか・・・。
すぐに思い当たるのは、<何をしていいのかわからない>、<何もすることがない>などの言葉はすでに時代遅れであり、また、メッセージを直接スローガンとして掲げるやり方自体も、時代遅れだということです。そのことが、控えめながらにも、ビシッと指摘されていると見ることができます。
選ばれた表現の専門家としては、人の心に響かない方法をとることは絶対に許されないわけです。伝えたいことは、的確に伝わる方法によって伝えなければいけない。それが本当の表現ですから。
では、福岡さんがそのように細心の注意を払って示そうとしたメッセージとは何なのか。今の時代にあらためて気づくべき問題とは何なのでしょうか?
私が次に思い当たったのは、そのことです。
つまり、作品を見る者それぞれに、そのことをあらためて考えてもらうこと、そういう機会を提供することを福岡さんは意図されたのかもしれないと。まさに押し付けではなく、自然にそこに意識が向かうような形で、です。
ちなみに、福岡さん自身は、<何をしていいのかわからない>、<何もすることがない>などと座視されているわけではなく、かつてなかったくらいに制作に勤勉に取り組まれているそうです。傍から見ていると、何かにかりたてられているように見えるくらいに。
(・・・僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか。なんて、いまさら、こんなこと口にしても誰も見向きもしてくれないでしょうし、自分でもカッコ悪いと思いますが、でもね、うまく言えませんが、状況はどんどんひどくなっているような気がするんです。どういったらいいかわからないけど、ねえ、どうしていいかわからないけど、じっしてられないのですよ。だから、せめて・・・)
会場を出る頃には、そんなつぶやきが聞こえてくるようでした。<何をしていいのかわからない>、<何もすることがない>、<僕達は本当に怯えなくてもいいのでしょうか>などの字句は、野暮なスローガンのようでいて、実はカムフラージュで、でも、そのカムフージュを剥いだ時にムキ出しになる真実は、目新しいものでも、革新的なものでもなく、ずっと繰り返し繰り返し取り組まれてきた問題・・・幸福を願う素朴な思い・・・でも何故か、それとは違う方向に進んでしまう現実・・・、それに尽きる。
そして、それに尽きる以上、表現者も、結局、そこのとろを繰り返し提示して行き続けるしかない。このままでいいのでしょうか、という、相も変らぬ素朴な問いかけを、新鮮に、絶えず心に響く形で表現して行くしかない・・・。
今回の展覧会の特色は、そんな地道な繰り返しを果たしながら、しかし、同時に、そんな人間とアートの基本的な関係を端的に集約してみせることを試みた、その点にあると言えるかもしれません。
それにしても、アーティストとしての天分をもった人の凄みというのを、まざまざと見せつけられる思いがした展覧会でした。
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