No.192 Last Up Date 2001,2,23

ベルギーの巨匠五人展

大丸梅田店

会期 2001,2,14-2,25
休館 会期中無休
料金 一般900円

 



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「 
 ベルギーの巨匠五人展

 フランドル派として優れた巨匠を輩出してきたベルギー。19世紀から20世紀にかけ、再び革新的な発展を遂げ、後の美術史に重要な足跡を残しました。
 ジェームズ・アンソール(1860-1949)は幻想的な仮面やぐテスト久那グロテスクな骸骨を明解な色で描き、シュルレアリスムの先駆者的役割を果たしました。
 レオン・スピリアールト(1881-1946)は、平凡な日常風景を独自の視点で描き、世紀末の不安を表現しました。
 コンスタント・ペルメーク(1886-1946)は、庶民の暮らしを力強く描写し、ベルギーの表現主義を確立しました。
 ルネ・マグリット(1898-1967)は、シュルレアリスムの中で最も著名といわれる存在。日常の現実をありえない状況で描き、独得の不思議な画面に人間の心に潜む幻想を巧みに表現しました。
 ポール・デルヴォー(1897-1994)は、幼少期の抑圧された衝動や記憶を題材に、エロティシィズムを清純な視点でとらえ、夢想的作品を描きました。
 21世紀が幕開けた現在、百年前に世紀のはざまで生まれた、表現主義やシュルレアリスムの作品を、初出品作も交えて一堂に展示します。ベルギー近代美術の奥深い全貌をご鑑賞ください。」(同展チラシより)

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出品作家

ポール・デルヴォー
レオン・スピリアールト
コンスタント・ペルメーク
ルネ・マグリット
ジェームズ・アンソール

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訪れたのは2月19日の夕方。
観客数は、六分入り程度。同館の立地の良さからいうと、悪くはないけれども、ちょっと低調というところでしょうか。
層をみると、その理由が察せられます。若い男性が三割弱くらい、同じく若い女性が三割弱くらい。そして中高年の婦人連れも三割強くらいだったのですね、つまり、中高年の婦人連れが少なかったのです。曜日の関係(月曜日)もあるのかもしれませんが、PR活動も適切さが足りなかったのかもしれません。たとえば、チラシの絵が中高年の婦人にとっては魅力的ではなかったとか・・・。あるいは、五人展というのが、マイナーな作家の寄せ集めとうつったのか・・・。もちろん、アンソールやマグリットがどんな作家であるか知った上で、敬遠された可能性もありますが・・・。
決して、悪くない展覧会であっただけに、惜しまれます。

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ご感想などお寄せください。

いわやん(2001,2,19)
 先日訪れた『エコール・ド・パリ1920展』に比べれば、ずいぶん勝手が違って戸惑いました。時代的にはそう差はなく、重なりもあって、実際、似た趣の絵もあったのですが、全体としては、ちがった。
 まず、その差についてからですが、理由はいくつか考えられました。ひとつは、1900年代の、10年、20年という時間での絵画表現の展開がいかに早かったかということ。1920年と1940年では時代の基調がもう変わってしまっている。それが一つ。
 もう一つは、エコール・ド・パリというのは、パリに集まった異邦人のことですから、当然、それぞれにエキゾチックな色彩ももってるのだけれど、それが異文化の人にもわかるよう、自然に配慮されていたのではないか。つまりボーダーレスな傾向も強く、そのために一般にわかりやすい表現になっていたのかなということです。
 本展は、五人展で、それぞれに違いはあるわけですが、それでも総じていえば、パーソナル色がつよい。時代がね、どんどん個人主義的になっていったということはもちろん考慮されねばなりませんが、やはり、パリに比べればローカルだということでしょうね。こちらから、歩み寄って、その人のクセをわかってあげないと、コミュニケートしにくいところがある。口数が少なく、人づき合いも少ない人と接するようなものですね。その人の、良さとは別のはなしです。
 ですから、アドバイスさせていただくとすれば・・・
 なにか感じられはするんだけれど、何だろうって。たぶんそういうもどかしい感じがする方が多いと思うのですが、そこでね、出てしまわないで、できれば、一度席に腰かけるとかして、ひと息いれて、ちょっとね、時間をつくっていただきたいと思います。
 人づき合いでも、そういうことってあるじゃないですか。言葉でやりとりすると違和感強かったりするんだけれども、一緒にいなくちゃならないはめになって、時間がたつと、なんとなくね、気心が多少はしれてくるというような。そういうことをね、おすすめします。わたしも今回そうして接点をたぐりよせました。

ジェームズ・アンソール
 最近、一般的に関心がもたれるようになった(多くのひとが悩んでする)メンタルヘルスとの関わりでも、興味深い作家です。葛藤して葛藤して、解体していくというのか、塗りつぶしていく時期があって、そして、狂気じみた笑いを展開するようになります。しいて言葉にすれば、不気味なのはこの世の中のほうで、まともに向き合ったら気がへんになる。だから、笑おう。・・・そんな感じです。
 ですから、荒唐無稽な絵のようでいて、実はそうではなく、かなり現実を意識して、その結果の狂気じみた笑いなんですね。ぎりぎりのところでバランスさせている。絵画表現でもって、現実との接点をかろうじて維持している、そういってもよいかと思いますが、そのぎりぎりの緊張感が、こころに迫ります。
 別に、戦場などてはなくとも、極限状態に近いところでは、人は笑うことがあるんですね。それは発狂して笑うんじゃなくて、たぶんその手前で意識的に狂喜してみせるのです。水の中に・・・むぼうびに落ちれば危険ですが、直前でね、飛び込む姿勢をとれれば、まだましじゃないですか。そういうことじゃないかと思うんですが。でも、普通では考えられない世界です。底知れぬこわさがあります。
 ですが、その背後にあるあたたかさ、一生懸命さ、実はこのひとのほうがずっとまともなんじゃないのかという、そんな何かが伝わってくるのでしょうか、とてもひかれます。ちなみに、印刷物では感じがわかりにくい絵ですので、実物をみたほうがいい絵、とくにそう思った絵です。

レオン・スピリアールト
 この作家は、メンタルヘルス的な見方をすれば、自閉的なところからスタートしているようです。アンソールの場合は懐疑というのでしょうか。疑うというのか、つきつめて考えるというのか、こたえを求めていくようなところが強くあるのですが、このスピリアールトの場合は、そうではなくて、情緒的です。孤独の情景にひたっていく。描かれる絵の孤独の色はひじょうに濃いんですが、ですから、逆にね、孤独に憧れているのかなと思えなくもありません。少なくとも、孤独の情景の中に、やすらぎが感じられます。アンソールのような緊張のバランスがあるのではなくて、あの静けさはたぶんやすらぎですね。ふつうの者からすると、あんなさみしい場所というようなところであっても、彼はそこでほっとできた、ということなのでしょう。
 で、この作家の場合は、そういう孤独の情景を描いた時代のあと、絵描きになります。皮肉な言い方をすれば、絵を描く楽しみをみつけてしまって、たぶん孤独にひたることを卒業してしまったのです。
 たとえていえば、絵というね、魔法を手に入れて、それで占い師が水晶だまにもう一つの世界を映し出すように、そんな真似をしてみたり、いろんな場所へとんでいったり・・・。今回の展示作品を見る限りでは、後半生はそんな感じです。どうしようもなく孤独で気難しさうなおじいさんが、ふと手にした道具で、むちゅうになって何かの遊びをはじめたような、そんな感じでした。

コンスタント・ペルメーク
 ひじょうに濃く、しっかりしたタッチの描写なんですが、描かれるものは、なんというかひじょうに私的な世界・・・いや、世界などではなく、部屋の中のシーンのようなものなんですね。さらにいえば、具象を描いてるようなんですが、じつは対象物の存在が描かれているわけではなくて、対象のカタチがいわば音符のように感覚的に用いられています。表意文字である漢字をアテ字にして、音だけを表すような、そういう具象なんですね。
 こういうと難しい前衛のように聞こえるかもしれませんが、実際はまったく逆で、あたたかい色彩と素朴でユーモラスな描写のとても親しみやすい絵です。
 親しみやすいんですが、この魅力はいったい何んなのだろうと、そういう部分があって、そこのところを言葉にしようとしているわけです。前置きがちょっと長くなりましたが、わたしの言葉でいうと、こうです・・・
 あきらめや、くたくたや、ためいきが描かれている・・・
美化したり、物語を与えたり、ぜんぜん飾ることなく・・・
それが、しかし、ぬくもりのあるもので、ほっとさせるなにかがあって、ひかれてしまうのは、たぶん、庶民のあきらめや、くたくたや、ためいきは、実は、悪くないものだからでしょう。お金持ちや貴族の孤独とは、ちがうんですね。彼らのうれいには毒がありますが、そういうのとはちがう。
 ペルメークという作家は、そこのところに気づいて絵にした作家だと思いました。
 おもしろいですよね。孤独とかね、自分の中の狂気とか、そういうものを絵にすることが流行り始めたその時期に、それと対極的なものがあることに敏感に気づいた作家がいたのですから。
 そう、苦しいことやつらい悩みは昔からあったのですが、その大半は、空が曇ったり、雨になったりするようなもので、たとえそれが嵐になったところで、それはむしろ自然なんですよね。治療を必要とする病気とはちがうわけです。そこのところをちょっと考える必要があるんじゃないか・・・そんなことをさりげなく、あたたかく伝えてくれる絵なのです。今回、いちばんのおすすめです。

ルネ・マグリット
 表現手法については、コンピューターの出現によって、コラージュがまったく容易になってしまい、その分、目新しさはなくなってますが、あらためて見直すと、原型はすべて彼が、というかこの時代に試みられていたんだなと、そのパイオニア性を再認識します。
 ありえないシュールな世界は、うらをかえせば、自分の固定観念の限界を気づかせてくれるもので、その限界とはつまり、檻のようなもので、自分でね、自分を狭い範囲に飼いならしているような、そういう面があるのだろうなと、思わせてくれます。
 目の前にみえるもの、意識できるものもまた虚構だというパラドックス。そこのところを行きつ戻りつする楽しさが、彼の作品の魅力でしょう。

ポール・デルヴォー
 夜の街に裸の女性がいるという絵で有名なデルヴォーですが、街にね、裸の女性がいるから幻想的だということではないんじゃないかと今回、思いました。
 街、公園、駅などの描き込みがすごく丹念なんですよね。それに夜を描いてはいるんですが、夜景ではありません。実際の夜景はあんなに明るいことはないですから。つまり、デルヴォーは夜景を描きたかったんじゃなくて、街や駅などの建物、構造物の夜の顔を描きたかったのでしょう。
 なぜ、夜の顔を描こうとしたのか。それは夜が、昼間眠っている生命が目覚める時間帯だからです。昼間じっとしているもの、そして、自分の中のもうひとりの自分、それらが動き出すのが夜なんですね。
 ところが、深夜、もうひとりの自分が目覚めて動き出したところ、行き場がないわけです。外に出る、街や公園や駅といった、にぎやかそうなところに出てみる・・・。
 しかし、そこにある建物や構造物は、実は生命ではない。昼間、じっとしていて夜になって目覚めるのか思っていたら、夜にも目覚めていない。遠くからみると、そこへいけばなぐさめられるような気がして近づくんだけど、そばによると、うんともすんともいわない。生きてないんです。なぐさめてくれないんです。
 そして、そうした焦りと不安のなかで、あたたかい女性の姿が思い描かれる・・・思い描こうとする・・・。けれども、はたしてその女性はやすらぎを与えてくれたか。ぬくもりをもって自分を包み込んでくれたか・・・。いや、そうではなかった。それもまた幻影だったと、そのように描かれているように、わたしには見えました。
 女性のカラダは、もうひとりの自分にとっては、なぐさめにもいやしにもならなかったわけです。建物や構造物が空虚であると同じように、女性のカラダも虚構であったと、そういうことではないでしょうか。
 具象ばかりを丹念に描いてね、カタチのないものを少しも描き込んではいないのですが、しかし、表現しようとしているのは、こころ、ではなかったかと。そのように思えました。


 今回の展覧会、はじめにも言いましたように、何かもどかしい感じがあって、いったい自分は何を感じているのだろうかと、その正体を一生懸命さぐりつつ、みていたのですが、ひとつ思ったのは、近現代のコミュニケーションの特徴ですね。
 昔は、お祭をやったわけです。共同作業を通じて、たとえつかの間であろうとひとつになろうとした。あるいは、仲間であることを確認したのだと思うのですね。
 ところが、近現代になるとそれでは満たされなくなってきた。内面がね、大きく意識されるようになってきて、共同作業のような外面のことだけでは、こころはみたされなくなってきたわけです。
 で、どういうことがはじまったかというと、自分の中のごくごく私的なこころを外に示すことで、逆にね、わたしにもそういうところがあるとか、そういう感覚すごくよくわかるとか、そういうコミュニケーションを成立させていったのだと思うのです。
 きほんてきには共同作業のないコミュニケーションですね。
 だから、展覧会での鑑賞であったり、読書であったり、コンサートだと思うんです。それらが近現代のお祭りなんです。ところが、従来のお祭と異質なものになったのは、表現する人と共感する観衆と、役向きが二つに分かれてしまったことです。
 そこでは、今まで以上に共感が重要になるんですが、しかし、実際には表現者と鑑賞者という役割の違いは歴然とあって、表現者のほうは完全燃焼できても、鑑賞者のほうは、どこか満たされない部分が残る。
 そのために、別の展覧会、別の本、別のコンサートを渡り歩くということになるんだけれど、でも、飢餓感が残り続けて、いわば、共感を消費するというようなことになるわけですね。経済にとっては、まあひじょうに好都合なことになるわけですが、しかし、共感というこころの根幹にかかわる部分を消費するようなかたちでしか手に入れられなくなった人の孤独は、やはり、あやういかもしれません。
 じゃあ、みんな鑑賞するだけじゃなくて、表現すればいいと、その通りなんですが、表現も技術ですから。はじめのうちは稚拙なことしかできません。
 手料理だといっても、未熟なひとの手料理は、コンビニのパック詰めよりはるかに不味いということになる。そこに耐えられるかどうか。そこをくぐり抜けられるかどうかということが問題です。
 もちろん、経済的にはね、下手な絵描いたり、楽器練習してるより、その分働いて、それでライヴいくなり、絵やCD買ったほうがいいというね、合理的に考えればそういう仕組みになっちゃってるわけですから。

 さて、想像ですが、次のアートというのは、表現者と鑑賞者という二分された構図にはならないように共感をつくりだす試み・・・になるのかもしれませんね。そこが求められているような気が、今回、いたしました。

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