No.196 Last Up Date 2001,2,16

ジュネーヴ
プティ・パレ美術館所蔵
エコール・ド・パリ
1920展

大丸京都店

会期 2001,2,14-2,20
休館 2,16は5:30まで
料金 一般700円

 



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ジュネーヴ、プティ・パレ美術館所蔵

エコール・ド・パリ1920展

 大戦間の平和な時代、パリには世界各地から芸術家が集まり、美術や文学、演劇、音楽、あるいは写真、モードにいたる様々な分野で新しい文化が花開きました。それは後にフォル・エポック(狂騒の時代)として伝統的に語られるほど華やかなものでした。
 当時の美術は、シャガールやキスリングなど外国人を中心としたエコール・ド・パリの時代として知られています。ところが実際には戦前に生まれた素朴派や抽象主義、フォーヴィズム、キュビズム、戦中のダダイズム、戦後のシュルレアリスムなど、20世紀を彩る多彩な動向も渾然一体となって渦巻いていました。
 本展は、ジュネーヴのプティ・パレ美術館の豊富なコレクションの中からキスリング、ユトリロなどのほか、日本では未紹介の作家も取り上げ45作家の61点を展示。
 エコール・ド・パリを核としながら、多彩な顔をもつパリの20年代の美術を紹介いたします。」(同展チラシより)

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出品作家

モイーズ・キスリング
ジュール・パスキン
モーリス・ド・ヴラマンク
ラウル・デュフィ
マルセル・ルプラン
エクトール・トロタン
マリー・ローランサン

ほか

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訪れたのは2月16日の午後。
寒気の到来とかで、かなり寒くこなゆきがまう悪天候だったが、館内は大勢の人でにぎわっていた。八分入りといったところ。いくら集客力の高いデパートといえども、平日とすればまずまず成功というところだろう。
層としては、中高年の婦人連れが三割、年配の男性がニ割、年配の夫婦が二割、若い女性が二割といったところか。年配の男性の姿がめだった。でも、それは本会場の特色で、この展覧会に限ったことではない。
雰囲気も上々。フランス近代絵画は、日本人の現在の展覧会ファンのもっとも好むところの一つのようだ。エコール・ド・パリという言葉も十分認知されている(耳に馴染んでいるという意味)ように思われた。

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ご感想などお寄せください。

いわやん(2001,2,16)
 エコール・ド・パリの展覧会ということですが、内訳としては半数以上の作家が一点、ほかも二点がほとんどという構成。でも、これがよかった。
 今まではね、どちらかというと、キスリング、パスキン、フジタなんかが中心で、ベル・エポックの狂騒時代という実感がなかったのですが、今回の会場は、まさにお祭状態。一つ一つの作品を見て歩くのが、まるで屋台や見世物小屋をたずねて歩くように、趣向が次々にかわって、意外性があって、雑多でとても楽しいものでした。
以下、個々の作品について、とくに印象的だった作品をご紹介したいと思います。

マリア・ブランショール
 おそらく今回はじめて出あった作家ですが、この一点だけでも訪れた甲斐があったとあったといいたいくらい、いい絵でした。いっけんすると暗くやぼったいように思うのですが、よく見ると、暗さはほのかな灯りと同様、やさしくあたたかく、描かれているひとがね、そこに生きていて、絵になった場面、その瞬間が永遠に続いているかのようなね、ぬくもりが感じられるんです。静かな調子なんだけれど、命が息づいている絵だと思いました。

アンドレ・ドラン
 わたしにとってのドランは、忘れられない味という感じです。さほど独創的だとも思わないし、好みでもないのですが、なんか独得の味わいがあって、今回も、ああ、やっぱりドランだと。ドランがあったというそれだけでうなづけるものがあるんですね。

ニコラ・タルコフ
 母子図でず。母親が幼子を抱く絵なんですが、母は実は子どもに抱かれていました。慈しみを与えているのは子どものほうでした。聖母は天使に祝福され、時は空色にかがやき、太陽は、そうか空に育まれていたのかと今さらながら気づかされました。絵ってなんてすばらしいんだろうと、うれしくなるような絵でした。

ルイ・ヴァルタ
 魚市場の絵です。ただし、ただよってくるのは生臭さではなく、人々の活気で、誰ひとりこちらを見ているわけでもないのに、少しもよそよそしさがありません。来るものを拒まないオープンな喧騒が、ときにはやすらぐ場所になる・・・そういうことを知っている作家だと思いました。

モーリス・ド・ヴラマンク
 フォーヴィズムの代表的な作家として知られるヴラマンク。しかし、今回出品されていた作品は、街角を描いたもので、野獣めいた猛々しさはどこにも見当たりませんでした。曇天に似つかわしくない強い色遣いがあるには、あります。しかし、それはいわば暗中に光明を見出すかのような視線で、そこに探されてるのはささやかな希望ではないのかと思われました。

ジァン・ビュイ
 静かだけれど、あたたかくかわいらしい静物画。
ただね、それだけのことがときにどれだけここちよく
感じられることがあるかという・・・。

ラウル・デュフィ
 いまどきの若者とかわらない人間が、とても74年前のものとは思えぬスマートさで生き生きと得かがれていました。今見ても十分イケてるという感じです。新しさとか前衛とか、もしかしたらそういうのは、いい加減なレッテルで、世界には同時にすべてのスタイルが雑居しているのかもしれない・・・ただ、どこに光があたってるか、どこに注目するか、それだけのことかもしれない、などと、ちょっと考えさせられました。

マドレーヌ・リュカ
 雨の日や雪の日は気分が落ち着くという人がいます。何もしなくても後ろめたくないからとか、守られているようだからというのがその理由です。リュカの絵のやさしさは、たとえればそのようなやさしさです。風が吹き込まない閉じた世界のやさしさ。健康な人はその不健康さが鼻につくかもしれませんが、たとえば、人は深夜にずっと起きていることもあるわけで、そのような狭間にある時には、まぎれもなく別の太陽、別のやさしさが必要になるものなのです。もう一つの世界で待っていてくれる人、ほんらい闇の世界であるその場所に、空や森ややさしい人々、動物を描き込んでくれた・・・それがリュカのような作家たちなのです。ですから、それはツクリモノなどと敬遠すべきものではなくて、涙でそれがにじんだりしないよう十分注意しながら、ひとときを過ごさせてもらう、
そういう世界でしょう・・・。みていてそんなふうに肩をもちたくなりました。

フェルディナン・デスノス
 何故か、輪にうまく溶け込めない人がいます。そういう気分の時があります。この世界が嫌いなわけではなくて、むしろその逆で、とても素敵だなと思って眺めて暮らしているのだけれど、手をのばしてふれようとすると不安になるのです。こちらに視線が集まり、手招きされるとその場から逃げ出したくなるのです。でも、眺めてるだけなら、まちがいなく好きなのです。たとえれば、そんな絵です。しかし、そのことに気づいても知らん顔してみなければいけません。知らん顔で見てる限りとてもやさしくのんびりした世界なのですから。

アンドレ・ボーシャン
 どこにもあるような森林公園の一角のようです。そこにいる人もカジュアルです。けれどもその何気なさがなんだかいいのです。なにげなさって、意識するとなかなかつかまえられないもので、そのことに気づいた人が、たぶんこの絵にひかれるのかもしれません。そして、こんな絵を描いた作者は、樹や水の生まれ変わりでしょうか。それとも、樹や水に生まれ変わったなら、このような風景が眺められる場所がいいと、そんな思いを抱いているのでしょうか。何気ない幸せって、本当はね。意識されない時のほうが無邪気でいいのかもしれません・・・。

カミーユ・ボンボワ
 不思議な絵です。夢の中のようなシュールな光景でありながら、人は素朴であたたかいのです。水浴している二人の人物にコミュニケーションが交わされているわけではありません。でも、通じあってるのです。岸で呆然とながめているのは、作者自身の姿でしょう。願望ですね、たぶん・・・。なんてささやかな、なんて素敵な願望なのでしょう!

フェリックス・ラビッス
 びっくりが集まって集合写真をとったらこんな感じでしょうか。それにしてもよくとれています。自分がうつっているわけでもないのに、仲間との写真でもないのに何度もみてしまうのは、きっと・・・だからでしょう。さいこうにすてきな一枚。

ジァン・ポール
 夢を描いた作家の紹介が多くなりましたが、この作家は街に生きた作家です。彼の描く街角は、精密な写実画ではないのですが、写真よりもリアルに雰囲気を伝えてくれます。誇張も美化もなくそれでいて、とても好ましい空気があるのです。そう、彼はこの街が好きなのです。どこが好きというような愛し方ではなくてまるごと
つきあっているのです。そしてそれはとても大切なことで、それさえあれば十分なんだということを教えてくれます。行ったこともない、名前すら知らないこちらまで、その街で生きることがなんだか悪くないなあ、と思えてくるのです。

ユトリロ
 ユトリロにはめずらしくカラフルな絵がありました。少し過剰なくらい陽気が感じられる絵です。彼にも、晴れた日はあったのだなと、ちょっと意地の悪い感想をもったりしましたが、まじめに眺めると、感情を殺した白灰色の絵よりもせつなく思えてきました。でも、これはよろこぶべきせつなさなのでしょう。つよく鮮やかにさしこんでくる朝日を見て、なぜか胸がつまることがありますが、それに似ているかな。

ジュール・パスキン
 パスキンらしい作品が二点。駄作ではありません。しかし、今回の展覧会の中では何故か精彩なく見えました。パスキンは、ほんとうに自分が描きたくてあのような絵を描いていたのかなと、そんな気がしました。今回の展覧会では、そのようなことを問う空気があったのかもしれません。

マルク・シャガール
 シャガールらしくない白と黒が基調の、メルヘンっぽくない絵がありました。堅苦しいとか冷たいということはないのですが、日本人で言うと、寺院で儀式にのぞむときのような感じです。何なのか、ちょっと戸惑いましたが、困惑の対象はシャガールというよりも、宗教的な空気ものそのものに対する戸惑いなのかもしれません。

モイーズ・キスリング
 みながそれぞれに持ち味を発揮して楽しくにぎやかなお祭さわぎのような今回の展覧会にあって、ひときわ目立つ華は、キスリングでした。着衣ですわる女性の上半身と裸で横たわる女性の全身と二枚の絵が出品されていたのですが、それぞれ違う雰囲気なんですね。キスリングであることと美しいということは共通しているのですが、では、キスリングであるということとはどういうことなのか。特有のデフォルメ以外に、彼の特徴はあるのだろうかと、考えてみたのですが・・・
 対象に備わる魅力に対して逆らわないというか、それを自然に引き出すことが上手なのかもしれません。たとえば、着衣の半身像の場合、自然体かというと、そうではありません。モデルはみられることを意識してやや姿勢を整えていますし、服装も赤いセーターにブルーのスカーフと、コーディネートを工夫した形跡がありありです。ですが、その程度の意識は、女性とすれば、日常的なものであって、そういう意味ではそのような配慮があったほうが普通なんですね。そう、日常的という意味での自然な空気がみごとにただよっているわけです。
 いっぽう、裸体のほうは、これまた原始という意味あいでの自然とはかけはなれたものです。生まれたままの姿というような裸ではなく、磨き上げられた美しさなのです。しかもそれに使われたのは、エアロビクスのようなスポーティなものではなく、恋愛や酒や夜や退廃や享楽といったものでのツヤなんですね。そういう美が、美化されたり非難されたり、あるいは誤魔化されたりせずに、そのまま魅力的に描かれているわけです。
 そう、そういう意味では、まっすぐ勝負なんですね。ふくざつな風俗のなかでの真っ直ぐ勝負なんです。比較するのもなんですが、その点でいうと、パスキンのほうがどうもかすんでしまう。今回のような展覧会は、彼と接するにはふさわしくないということでしょう。

 このほかにも、たとえば日本人作家として、ミサオ・コウノとタダシ・コヤナギの作品がありましたし、名前はあげませんでしたが、ユニークな作家、有名な作家との差が問われるような作家が幾人もみられました。
 とくに絵の好きな人には、とてもたのしめる展覧会だと思います。

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