No.465 Last Up Date 2006,3,24

ドイツ表現主義の彫刻家
エルンスト・バルラハ

京都国立近代美術館

会期 2006,2,21-4,02
休館 :月曜日
料金 1300円

 



guide
 

ドイツ表現主義の彫刻家
エルンスト・バルラハ

。」(同展チラシより)

このページのトップに戻る・・・

作品
 

出品作品

 

ほか

このページのトップに戻る・・・

会場風景
 
 訪れたのは、3月23日の午後。平日でしたが、なんと館内は、八分いり。印象派やオールドマスターの展覧会並みです。びっくりしました。観客の層は、強いて言えば、中高年の女性が多かったですが、大多数というわけではなく、男性の姿も多く、年齢も幅広かったように思います。
 雰囲気としては、ゆっくりと丹念にみてまわる姿が多く、人が多い割には、ざわつかずしまった空気でした。

 ここは、前売り券の販売方法を変えたのでしょうか。近辺の画材屋さんやタバコ屋さんでは、ここの前売り券は扱われていませんでした。京阪交通社のみで販売されていたようです。
 ちなみに、次々回展の前売り券については、当日1300円、通常の前売りなら1100円のところが、同館で四月中に買えば、900円とのこと。今回の展覧会も、そういうやり方だったのでしょうか。
 ちなみに、京都の京阪交通社は、河原町蛸薬師にあります。

このページのトップに戻る・・・

感想
 

ご感想などお寄せください。

いわやん(2006,3,24)
「ドイツ表現主義」というキャッチフレーズがついてますが、わたしはこの言葉を理解していません。そちらからの解説はありませんのであしからず。というか、ぜんぜん我流で喋ってるだけです。

 感想は、一言でいえば、おもしろい! です。観客が多かったのもうなずけました。
 何がそんなに面白かったのか。
 まず、口当たりがよいです。ジャコメッティのように荒涼としてはいませんし、ロダンのようにシリアスでもありません。童話の挿絵に出てくるようなスタイルなのです。愛嬌がある。ほのぼのとしています。しかし、媚びていない。女子供向けに、かわいらしく作ったというようなものではありません。
 シチューが思い浮かびました。北国のコトコトじっくり煮詰められたシチューです。決して子供用ではありませんが、見るだけでポカポカと見も心もあたたまりそうなシチュー。昼夜たっぷり煮詰められているのに、大きな具がごろんごろんあるようなシチュー。バルラハの作品は、そんなシチューの具のようでした。
 ただ、その具は、もの思う具であったりします。
 たとえば、「占星術師」という作品があるのですが、どういう姿だと思います?
 怪しげな分厚い書物をのぞきこんだり、あるいは、机の上で奇妙な図を描いて占っているかのような姿を想像されていた方が多いかもしれませんが、それはイメージが貧困というものです。バルラハの描いた「占星術師」は、思いっきり空を見上げています。いや、正確に言うと、夜空を夢中で眺めています。ただ、それだけです。でも、それで十分過ぎます。占星術師とは、なるほど、そういうものなのかと納得させられます。納得させられて、彼はいったい何を読み取っているのだろうかと興味をかきたてられます。占星術師は、ふつうの者には見えないものを見ている。それがなんとも惹かれる。ほんとうのスペシャリストは、とても魅力的。
 念のために、つけ加えるならば、この作品は偶然の産物ではありません。
 バルラハは、明らかに「上」にこだわっています。「上」とは、何か。
 彫刻にとって、「上」は異界なんですね。横や下にはいくらでも彫刻を作れますが、「上」には作れませんから。彫刻にとって、「上」は、外部であり、他者なんです。つまり、バルラハの作品は、外に目が向いているのです。外にコンタクトしようとしているのです。まるで生命あるもののように。
 リアルなものを作ろうとするときに、まずたいていは形が真似られます。人そっくりに彫れば、人らしくなるのではないかと考えがちです。が、やってみればわかりますが、そんなやり方では、あんまりリアルにならない。
 バルラハのやった方法のひとつは、たとえば、生命は外に働きかけるものダ!というような、そういうことを彫刻にしたということです。人が畑を耕す姿を彫刻にするというのではなく、彫刻が彫刻として外部にコンタクトする、そういう作品をつくったわけですね。
 いっけん、童話的な、マンガチックな「占星術師」は、実は(たぶん)、そういう鋭い洞察の元に作り上げられた傑作なんです。言葉で説明しようとすると理屈っぽいですが、実物は笑えます。さりげなく、ほほえましくて魅力的。
 こじつけに聞こえたかもしれませんが、もうひとつこじつけの例をだしておきましょう。
「孤独」という作品もあったのですが、この作品、どんな姿だったと思います?
 はい、スルドイ方は、おわかりになったことでしょう。「孤独」君は、下を向いているのです。それだけです。 

 バルラハの作品を見ていると、物語的であると感じられます。が、よく考えると、そこには起承転結の物語はありません。一場面なんですね。一場面なんだけれども、それは確かに時間の流れの中の一場面なんです。作品を見ている過去がたぐれそうなんです。これからのことが想われるのです。その意味で、ものすごく動的。ポーズは静的なんですが、作品の思いがダイナミックに伝わってくる。バルラハの思いというより、作品が生きて考えていて、その思いがのぞけるという感じなのです。
 たとえば、「再会」という作品がありました。娘と老母の再会というような図です。ひしと抱き合ってるように見えます。ああ、再会なんだなと思います。が、近づいてよくみると、娘のほうは老母をしっかりと見つめているのですが、老母のほうは、娘をみていない。視線が外れてるんです。あれ? ですね。
 老母は目が不自由なのでしょうか。それとも、認知症になってたりなんかしているのでしょうか。わたしは高齢者の施設で働いているので、ついそんなことを邪推してしまいましたが、それはどうでもいいこと。要するに、ワケありなんです。この再会。何があったのかはわかりませんが、なんかあったわけです。思えば、当たり前のことです。何かがあったから、離れ離れになってたわけですから。いろいろあったに違いありません。二人を隔てていたのは時間だけではない・・・ ああ、再会。重いです。「わぁ、うれしい!」なんて、そんなに軽いもんじゃない。一見、童話の挿絵のような作品が、見るものをひきつけ、またたくまにそんなドラマを垣間見せてくれるのです。人の営みなんて、奈落の淵を歩くようなものかも・・・なんてことをね、ひょうひょうとした姿で、語らずに、氣づかせてくれる。あくまでさりげなく。

「恐怖」なんて作品もあって、これについては、ムンクの「叫び」風だったので、ちょっと鼻白んだのですが、バルラハがそんな浅はかなことをするはずがありません。近づいてよくみると、顔がね、歪んでいるというよりは、醜い。たぶん、そこがポイントなのでしょう。「恐怖」って、確かにおそろしいものだけど、人が抗し難いというだけで、そんなにエライものなのかと。バカバカしい「恐怖」だって、あるんじゃないかと、バルラハはこの作品でそういいたかったのではないかと思えました。醜い顔は、何故、醜いのか。それはたとえば、強欲によって不正に蓄財した財産を一瞬にして失ってしまったというような場合、人はこのような醜い顔になるのではないか。いうなれば、愚かゆえの恐怖というものもあるわけです。

「つながれた魔女」は、おそらく魔女狩りのことをいっているのでしょうが、そんなに恐ろしい存在が、どうして簡単に捕まったりするのかという、そんな素朴な疑問を投げかけているかのようです。魔女を捕らえる者のほうがよほど恐ろしい、でしょ? おっとそれはタブーか。

 すいません。説明的であることをきらったバルラハの作品に対して、思いっきりくどくどと理屈をつけてしまいました。ついでといってはなんですが、最後にもうひとつ。「凍える少女」という作品のご紹介。

 女の子の顔がね、アツイんですよね。寒すぎて、熱でも出したのでしょうか。凍えてるはずなのに、アツイ。ん、このアツサは・・・ と、見ていて思わず、思い出されました。そうだ、泪はアツかった・・・

 

常設展の階では、浜田知明のミニ企画展が開催されてました。これもいいです。ぜひ。

このページのトップに戻る・・・

home に戻る album menu に戻る

 

展覧会のスケッチ

Kazuhiro Iwatsuki all rights reserved.
No reproduction or republication 
without written permission.
転載、再発行はご遠慮下さい。

mail : ipo2ho3po@hotmail.com

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送