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いわやん(2006,5,22)
京都市美術館の所蔵品ということで、京都の近代絵画作品が主です。ですので、日本の近代絵画が好きな人にとっては、ひたれます。わたしもそのひとりなんですが、自分の生まれる前のことなんですけど、美術にとってのなつかしき青春時代というような感じがするのです。なんでしょう、熱く、せつなく、愛しい。
企画については、タイトルを見ただけではまったくピンときませんでした。少なくともタイトルは失敗だなと思ってました。わかりにくいし、地味だし・・・と。
ところが、展覧会をみているうちに、企画の意味するところがわかってきました。わかってみると、これはなかなかおもしろいというか、重要な視点なのだということが理解されました。
簡単に言えば、こうです。
普通、美術の解説って時代で区分されますよね。近代とか現代とか。自分の国のことだともう少し細分化して、大正デモクラシーだとかなんとか。もちろん、そういう視点も重要なんですが、でも、存在というものは、時間軸の上だけにあるわけではありません。空間の中にも位置があるわけです。作家が暮らした場所。作品が描かれた場所・・・。
表現手法とか主義思想についてもそうです。手法や観念も人や作品という実体をもって、世界のどこかに存在していたわけです。もっといえば、生物の生態のように、生存に好ましい場所で生きていたはずです。似た傾向の作家が群生することは少しも特別なことではなく、むしろ自然。
群生していたから傾向が似たのか、そもそも志向が似ていたから同じ場所に集まってきたのかは、鶏と卵の関係のようなものですけど、ともかく、場所は大事。場所から、生物の実態が類推できる〜
本展は、その場所の位置づけ、マッピングというのでしょうか、京都の近代美術作品をマッピングしつつ、展望しようとしたものです。これが今までにないリアリティをかもし出しておりました。
時代と表現手法と思想のカテゴライズだけでは、思えば、ショーウインドー越しに観察するようなもので、はじめから向こう側にあるものだと錯覚してしまう。
向こう側、というのは、つまり歴史に残る大作家、名画というようなことです。はじめからそれらは特別なもの、有難いものであったというように思ってしまう。でも、本当にそうなのか? ということです。
もちろん真実はわかりません。わかりませんが、作家がどこに住んでどんな交友関係をもっていたかというような話は、逆に、作家や作品をひじょうに身近に感じさせてくれます。近所の青年やおじいさんの姿がだぶって連想される。これはこれで錯覚なんですが、ショーウインドー越に眺めるような錯覚とは対極の錯覚です。つまり、時代と表現手法と思想のカテゴライズだけでは見落としがちな影の部分がよく見えるようになってくるのです。
ああ、そういえば、歴史家や時代小説家の中に、現地を自分の足で歩き、その場所の空気を肌で感じ取ることの重要性を力説する人が少なくありませんが、美術の作家や作品を理解する上でも、それはまったく同様だったわけです。わたしは今回はじめて氣づかせてもらいました。
もっと早くご紹介できればよかった・・・
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