No.470 Last Up Date 2007,11,06

イタリア現代陶芸の巨匠
カルロ・ザウリ展

京都国立近代美術館

会期 2007,10,02-11,11
休館 :月曜日
料金 1000円

 



guide
 

イタリア現代陶芸の巨匠
カルロ・ザウリ展

本展は、カルロ・ザウリ(1926−2002年)の没後初めての回顧展であり、ザウリが制作していた地、イタリアのファエンツァ市との国際交流展として開催いたします。ザウリは、ファエンツァ国際陶芸美術館で開催の国際陶芸展でグランプリを獲得し、その後の制作活動により世界的に認知されるようになりました。イタリアの現代陶芸界の旗手として土の可能性を徹底的に追求したダイナミックな陶による彫刻作品を生み出すかたわら、繊細で緻密な建築壁面の仕事やタイルのデザインでもその才能を発揮し、デザインやリトグラフなど陶以外の仕事でも高く評価されています。」(同展チラシより)

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ほか

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感想
 

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いわやん(2007,11,06)
文化の日、入場無料ということで、ひさしぶりに展覧会に出かけてきました。

カルロ・ザウリ・・・
なにをする人かも知らずに、入場〜

立体でした。
彫刻? いや 陶芸のようでした。
器ではない、オブジェ、いわゆる現代陶芸です。

館内をぐるぐる三周しました。一時間ちょっと。
感想は、すごくよかったです。
ファイン・プレーをつづけざまに目の当たりにした氣分。たちまちにして、ひきこまれました。イチローのようなひとです。いろんなことが高度にできる。サラッと見事です。ただ、カッコよくまとめられているけど、モチーフ自体は有機的なんですね。

ふと思い出されたのは、八木一夫にはじめて出会った時のことです。二十五年くらい前のこと・・・。

その時、このひとは生命を作ろうとしている! とびっくりしました。
神が土から人を作ったという、旧約聖書の話がにわかにリアリティをもって連想されたほどの驚きでした。もちろん人形などという次元ではありません。まったく地球上に存在していない奇想天外な形をしながら、それでいて生きている感じがあるのです。ただ、その生命は、できそこないのようでした。
生命感はとても強いのに、カタチが途上というか、未熟だと思えました。

のちに、八木一夫が、養護学校で多くの強いインスピレーションを得ていたということを知り、その養護学校の作品展も見ましたが、たしかに、そこには、八木一夫のお手本がありました。お手本というか、八木一夫は養護学校の生徒を通して、生命のカタチの原型を嗅ぎ取ったのでしょうね。
ちなみに、養護学校の作品の多くは、わたしは未熟だとは思いません。美術の尺度からすれば稚拙かもしれませんが、生命感のある造形として、それらは過不足のないものだったからです。指導者であった八木一夫だけが、手探りで作っている。つまり生命のかたちというものについて、養護学校の生徒の多くは、見えているのであり、八木一夫だけが見えていないように思えました。文明人が、未開の地に踏み込んで苦労するようなものかもしれません。 

冒頭から、余談になりましたが
ザウリもまた、生命感に強くこだわった作家だと思いました。
彼の作風をひとことでいうならば、
有機的な抽象・・・ということになるかと思います。
カタツムリのような ヒトデのような、そんなプリミティヴな生命を思わせる造形が随所にあらわれます。

生命感といっても、動物の身体の一部を切り取ったような、そういうやり方ではないのです。それは顕微鏡的ではありませんが、生命のもっとも最小の、もっとも最初のカタチを探るかのような造形です。
八木一夫のように、未熟というか、途上であるような感じは、受けませんでした。
といっても、では、ザウリの生命感が成熟していたのかというと、ちょっと言葉を補わねばならないでしょう。

八木一夫の場合は、中等生物・・・という言葉があるのかどうか知りませんが、八木はそのあたりを目指して、未熟であることが多かった。
いっぽう、ザウリは中等生物なんか目指していないのです。むしろ、下等生物、きわめて原型的な生命にこだわり、そのエッセンスを獲得して、展開したのです。

もうひとつ補足しておかねばなりませんが、
八木一夫の作陶技術は、陶芸家の友人に聴いたところでは、その友人が敬服する名人の作家が、しみじみと回想して絶賛するくらいの、すご腕であったそうです。つまり、わたしが未熟だといったのは、決して、技術的なことではありません。イメージのことです。
また、このイメージが、ザウリと比べて開きがあるのは、やはり時代と場所の差がおおきいといえるでしょう。今日よりはるかに情報格差がおおきかった時代、極東に二十年くらいはやく生きた八木には、先進性ではハンデがあったに違いありません。現代美術のさまざまな試みに疎かったでしょうし、具象の束縛も強く残っていたことでしょう。ザウリのほうが、美術の潮流におけるスタート地点がはるかに前方にあり、次の時代に向けて覚醒した者たちの動向に接する機会にも恵まれていたはずです。 

八木との比較は、そこまでにして、ザウリのことをいま少し考えてみます。

ザウリの造形は、おおくの現代彫刻よりも、スリリングで、かつ、あたたかみがありますが、その要因の第一は、土を使ったことにあると思います。確かに、ザウリは、土という素材の魅力をフルに引き出しております。その自在な活用術は天才的です。しかし、そもそも土自体が、芸術の素材として、きわめて優秀なものであるということは無視できません。今後、多くのアーティストたちに土がもっと活用されるようになれば、ザウリを過去の人とするような、さらにスリリングで、自然な造形が出てくる可能性があると思います。 

では、ザウリの独自性はどこにあるか。
簡単に言えば、陶芸と彫刻を融合したということがあるでしょう。陶芸に現代彫刻のようなデザインと彫刻をもちこんだ。また、彫刻の側からみれば、造形に積極的にテクスチュアを盛り込みました。
近代彫刻の特徴のひとつは、彩色を排除したことにあり、そのことによって、逆に、現代の彫刻では、彩色という行為が邪道のようにみなされがちになりましたが、ザウリは陶芸出身のせいか、そんな先入観にとらわれることなく、いや、何よりも、おそらく生命を手本にしたために、ごく自然にテクスチュア・・・つまり「肌」を造形に加えました。ザウリは、ツルツルのっぺりの表面が、当然のことだとは考えなかったのです。 
ザウリの作品には、テクスチュアどころか、絵を描きこんだようなものさえありますが、それも彫刻分野から見れば奇を衒っているように見えるかもしれませんが、陶芸の分野では、絵付けというのは伝統的な手法のひとつであり、なんら特別なことではありません。描画と造形を別のものだとする観念は、ザウリにおいては、まったく希薄であったのです。
ただ、ザウリが特別なのは、陶器における絵付けのような、具象画や文様を描きこむことはしなかったということです。ザウリが主にほどこした「絵付け」は、デッサンにおいて陰影を表すような、強弱を表すような、きわめて限定された描写でした。 
このきわめて禁欲的な「絵付け」が、しかし、彫刻との比較では、とても豊かに感じられるのです。自然物との比較では、きわめて差が小さく感じられるのです。

ザウリの独自性を、技法の面から点検してみましたが、作品をあらためてふりかえると、それは良い方法ではなかったかもしれません。

ザウリの技法は実に多彩かつ高度で、まったく天才的ですが、しかし、多くの作品において、技法は、まったく出しゃばってはいません。至高の名人芸がしばしばそうであるように、ザウリの芸は華麗なスタンド・プレーではなく、まったく特別さを感じさせないものなのです。
つまり、それだけイメージが豊かで明確なのです。
技法は、イメージを具体化するための黒子でしかない。要素でしかない。ちなみに、この点は、八木もまったく同じです。八木の作品をみて、彼の技術が、伝統的な陶芸職人をも後ずさりさせるほどのものだとは、一般の者には、まず意識されません。 

造形についての感想は、以上です。
いくつかのエピソードや、せめてプロフィールなどの情報があれば、もう少しもっともらしく、あるいは別の角度から述べることができたかもしれませんが、あいにく何も情報がないので、事実と照らし合わせると、飛躍、思い込みが過ぎる部分があるかとは思いますが、ここまでとします。

次に芸術性について、考えて見ます。
芸術という観点からみれば、ザウリが何故それほどに、原初的な生命感にこだわったのかということを問わねばならないでしょう。
そのこだわりが、表面的なものにとどまっているのか、それとも深いところにまで達していたのかどうかによって、その仕事が芸術の範疇で評価されるべきものか否かということが決まるかと思います。最後に、この点についても感想を述べておきます。

彼がこのような創作を開始した動機には、自然に帰れ、というような氣分が強かったと思われます。それも太古の、創世記の自然。生命のルーツを遡って、そこから何か手がかりを得ようとするような氣持ちですね。
何の手がかりか?

新しい美術を開拓するための手がかり、というような野心的なものであったかもしれませんし、単に、自分がつくりたい造形のための手がかりということであったかもしれません。また、後者については、彼が自分の死期の近いことを予感して、生きることを切実に渇望していた・・・その無意識のあらわれが生命への強いこだわりになっていたのではないかと、そんな通俗的な想像をさせることも可能にします。
が、しかし、そういう部分は、彼の動機ではあったかもしれませんが、活動が展開されていく過程では、おそらく過去のものとなっていったことでしょう。。 
大きな鳥は、はばたいて天高くのぼった後、滑空します。はばたかずに、上昇氣流をとらえて空を自在に舞うわけです。
ザウリもまさに大いなる作家であり、その創作は泉が涌くが如しです。氣流にたとえられるような、いわば美術の原理に乗って創作する術を得とくした作家であると思われます。だとすれば、はばたきから滑空に移行した時点で、新たなビジョンを獲得していったと推理するべきではないでしょうか。

実際、彼の作品を、脳裏に描けば、とても「自然に帰れ」というところには、とどまっておりません。
端的にいえば、彼の造形した生命的な作品の多くは、個体生物とはなっていないのです・・・。これはいったい何を意味するのか。

また、八木のことをもちだして恐縮ですが、八木は個体生命を作ろうとしているかのようでした。それは未熟なものでしたが、しかし、それが新しい個体生命の誕生を企図するものであることは明確に感じられました。
ところが、ザウリの作ろうとした生命体は、植物や動物といった個体生命体とは、明らかにニュアンスが異なるのです。
それはいうなれば風のようであり、流れのような存在なのです。原始生命体のようでありながら、同時に、その方向は、フラクタルのような連続的な増殖なのです。 
「方向」といってしまいました。「方向」とは何んなのか。
この感想を書き始めたときに、よもやそんな話になるとは思いもしませんでしたが、その「方向」とは、まさしく進化の方向、というべきものです。
ザウリの創作において、そこで形作れられた生命体は、植物や動物といった個体生命体ではなかったのです。すなわち、今日まで、この地球上に展開されてきた生命の展開の否定、あるいは無視です。

この地球上に展開されてきた生命の展開とは別の、もうひとつの生命の展開がありえたのかもしれないと、ザウリの作品を思い描くうちに、そんな途方もないことが空想されてきました。

もうひとつの生命の星では、生命は風のように、水のように、一体であり、分かれることも融合することも自在で、境目がなく、流れて生きてゆく・・・ 

ザウリの作品には、そういう生命体の痕跡だといえば、ごく自然に納得できそうなものがいくつもあります。 
まったく、きわめて特異なビジョンといわざるを得ません。わたしは、そのようなビジョンを、今回、はじめて意識させられました。

工芸出身者の中には、時として、美術家をあざ笑うかのような、華麗な造形を易々と展開する作家が出現します。しかし、そのような作家は、しばしば華麗な創作とは裏腹に、思索の深みがなく、デザインに傾斜しがちです。ザウリについても、あるいは、そんなひとりではないかと、当初、疑いました。
しかし、繰り返し鑑賞し、いまこうして静かにふりかえっているうちに、このビジョンが、立ち現れてきたのです。
カルロ・ザウリは、単に器用な作り手でもければ、センスのよいデザイナーでもない。その作品は、まさに芸術という範疇で吟味されるべきだと思います。 


以上、長々と書きましたが、ぜひおすすめしたい展覧会です。

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